「187」 論文 日本権力闘争史−平清盛編−(1) 長井大輔(ながいだいすけ)筆 2012年4月21日

※ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」管理人の古村治彦です。次回の更新は、管理人の都合で、2012年5月5日となります。誠に申し訳ございません。ご了承のほど、よろしくお願い申し上げます。

●前回までのあらすじ●

※NHKの大河ドラマ「平清盛」をご覧の方は、こちらも参考になると思います。

 摂関家は、保元(ほうげん)の乱では、実質的な敗者であった。保元の乱は、摂関家の当主の座をめぐる藤原忠実(ふじわらのただざね)・頼長(よりなが、忠実の次男)と忠通(ただみち、忠実の長男)の対立を発端とし、結果的には忠実・頼長と上皇・顕仁(あきひと、崇徳院[すとくいん])が謀反を共謀したとして、天皇・雅仁(まさひと、後白河院[ごしらかわいん])と忠通によって、政治的に葬り去られた事件である。


説明: 一枚紙でわかる院政編.bmp

 勝者となった忠通であったが、乱の途中で、空覚(くうかく、宗仁[むねひと]、鳥羽院[とばいん])の遺臣(いしん)・信西(しんぜい)に主導権を奪われ、乱後、関白に加えて氏長者(うじのちょうじゃ)・摂関家領を継承したものの、摂関家そのものは保元の乱の分裂抗争によって、その勢力を後退させた。

 1155年7月の体仁(なりひと、近衛院[このえいん])死亡によって、雅仁の長男・守仁(もりひと、二条院[にじょういん])が即位するまでの「中継ぎ」として「雅仁暫定政権」が発足した。雅仁暫定政権の課題は、空覚の王位継承構想を実現することである。それは、「空覚−体仁−守仁」を正統(しょうとう、王家の嫡流)とし、雅仁は守仁即位までの「中継ぎ」にするというものである。雅仁は、空覚の遺志を100%受け継ぐことが求められた。

●保元の乱以後の状況

 1158年8月11日、雅仁(32歳)は守仁(16歳)に譲位した。15日には天皇の交代に伴い、関白が忠通から嫡男・基実(もとざね、16歳)に変った。雅仁暫定政権にとって、雅仁から守仁への譲位は既定方針であった。

(引用開始)

 もともと後白河天皇(引用者註:雅仁)の即位は、守仁親王への譲位を前提とした暫定的措置であり、天皇自身もそのことを承知していた。しかも即位の時点では、鳥羽院政(同註:空覚政権)が継続するという予想のもとで、適当な時期の譲位が予定されていた。(安田元久『後白河天皇』60−61ページ)

(引用終了)

 譲位は、空覚の遺志を代弁できる藤原得子(なりこ、空覚の妻、美福門院[びふくもんいん])と信西の話し合いで決まり、関白・忠通への相談はなかった。これは、雅仁から忠通への「引退勧告」を意味する。忠通は乱後、雅仁の力を借りて氏長者や摂関家領を継承した経緯があったため、雅仁に対して頭が上がらなかった。

(引用開始)

 この時期に忠通はすでに六十二歳に達して居り、形ばかりの関白の座に置かれていたのだろう。彼は譲位のことを聞くと、直ちに関白・氏長者を嫡子基実に譲るべく決意して、これを上表し、譲位の儀の当日にその譲渡が行われた。(安田元久『後白河天皇』62ページ)

(引用終了)

 守仁は空覚と得子の娘・よし子(「よし」は女偏に朱)を妻としていたが、結婚後二年経(た)っても、なかなか子供が生まれなかった。そのため、皇太子は空位となっていた。そこで、雅仁は次男・守覚(しゅかく、母は藤原季子[すえこ]、高倉三位局[たかくらさんみのつぼね])を皇太子に立てようとした。守覚はすでに仁和寺(にんなじ)の覚性(かくしょう、雅仁の同母弟)の弟子となっており、出家が予定されていた。雅仁は、父・空覚の王位継承構想を覆(くつがえ)して、自ら王位継承者を決めたかった。

 しかし、雅仁が守覚を立太子(りつたいし、皇太子に立てること)するためには、避けては通れない障碍(しょうがい)があった。信西である。信西は、空覚の王位継承構想の実現に尽力していた。空覚の死後は雅仁の側近として仕えてきたが、それは雅仁暫定政権が守仁の即位を前提としていたからである。皇太子には、守仁・よし子夫妻の男子が立てられなければならない。この考えは信西のみならず、朝廷全体の総意でもあった。雅仁が守覚の立太子を言い出せば、信西は真っ先に反対するだろう。

 雅仁にとって、何かにつけて空覚の遺志を持ち出す信西は、鬱陶(うっとう)しい存在になっていた。この頃、雅仁の寵愛(ちょうあい、恋愛感情)を受け、急激に擡頭(たいとう)したのが、藤原信頼(のぶより)である。雅仁と信頼は、男色関係で結ばれていた。二人の関係は1157年頃から深まり、翌年には信頼は26歳で正三位・権中納言(しょうさんみ・ごんちゅうなごん)にまで昇進した。信頼の急激な昇進は、信西に対するあてつけである。王位継承問題をめぐって、雅仁と信西の関係は破綻(はたん)した。

●平治の乱

 1159年12月9日、雅仁は信頼と源義朝(みなもとのよしとも)に、謀反の容疑で信西を逮捕するように命じた。信頼・義朝は、雅仁の御所・三条烏丸殿(さんじょうからすまどの)で信西を待ち伏せしたが、信西は現れなかった。それどころか、御所で火災が発生したため、雅仁と統子(むねこ、雅仁の同母姉、上西門院[じょうさいもんいん])を避難させなければならなくなり、屋敷の中に隠れていた信西の息子たちにも逃げられた。

 信西は事前に事態を察知し、京を離れ、近江国(おうみのくに、滋賀県)の信楽山(しがらきやま)に逃れていた。信西は謀反の容疑をかけられた時、すでに自らの死を覚悟していた。彼は浄土往生(じょうどおうじょう、死後、極楽浄土に往くこと)するため、山に隠れて、念仏を唱えながら、餓死するつもりだった。ところが、捜索隊に居場所を突き止められたため、信西は自殺した。信西の首は、謀反人に対する処罰として、京で梟首(きょうしゅ、さらし首)された。信西の息子たちは解官(げかん、免職処分)され、流罪に処された。

薙刀の先につけられた信西の首

 雅仁による信西殺害に、最も衝撃を受けたのが公卿(くぎょう、官位が三位以上の上流貴族、約25人)であった。その顔触れは、太政大臣・藤原宗輔(むねすけ)、左大臣・藤原伊通(これみち)、内大臣・藤原公教(きんのり、閑院流三条家[かんいんりゅうさんじょうけ])であった。彼らは、空覚の遺志を遵守することが第一と考えていた。その中心人物は公教であり、彼は信西と同じく、空覚の側近であった。公教は信西の死により、空覚の王位継承構想が危機に瀕していることを悟った。

 公教は空覚の遺志を守るため、空覚が正統と決めた守仁を担(かつ)ぎ出して、雅仁の企てを阻止することにした。公教は、雅仁に仕えていた藤原経宗(つねむね、守仁の外戚[母方の親戚])と藤原惟方(これかた、守仁の乳兄弟)にことの真相を伝えて寝返らせ、彼らを通じて守仁の同意を得た。公教の真の敵は雅仁であったが、彼は雅仁との直接対決は避け、その身代りとして信頼を標的とした。

 当時、守仁は雅仁と大内裏(だいだいり、皇居を中心とする官庁街)で同居していたので、この計画を実行に移すためには、守仁を雅仁のもとから脱出させなければならなかった。公教が守仁の脱出先に選んだのは、京の東にある平清盛(たいらのきよもり)の六波羅(ろくはら)邸であった。事件当時、清盛は熊野参詣(くまのさんけい)の旅に出ていたが、事件の報(しら)せを聞き、身の危険を感じて、四国・九州落ちを思い立ったりしたものの、17日には京に到着した。

平清盛

 入京直後、清盛は逸早(いちはや)く、信頼への支持を表明した。清盛は信頼の息子を婿(むこ)としており、二人は親しい間柄だった。また、彼は信西の息子・成憲も婿としており、事件の発生により、信頼と信西のどちらを選ぶのか、決断を迫られていた。清盛は信西を切り捨て、信頼を選んだ。

 保元の乱後、武士たちの中での有力者は、平清盛、源義朝、源義康(よしやす、1157年死亡)の三人であった。雅仁が清盛と義朝のうち、信西逮捕に義朝を使ったのは、義朝が信西との間に、縁戚関係がなかったからである。信西逮捕で手柄を挙げた義朝は、従四位下・播磨守(じゅしいのげ・はりまのかみ)に任じられ、雅仁の側近の一人となった。これから反雅仁運動を起そうとする公教にとって、雅仁派となった義朝を味方につけることは不可能である。そこで、公教は清盛に声をかけた。清盛からすれば、義朝の擡頭(たいとう)は自分の地位を脅(おびや)かしかねない。清盛は義朝を倒すため、公教の提案に乗った。

 25日、公教と清盛は作戦を開始し、守仁を内裏(だいり、天皇の御所)から六波羅邸に脱出させた。守仁・公教方は守仁脱出を貴族たちに宣伝し、六波羅への結集を呼びかけた。この時、はじめて、摂関家の忠通・基実父子が六波羅にかけつけた。摂関家は、反雅仁運動の謀議からは排除されていた。基実が信頼の妹と結婚していたため、摂関家は雅仁派と見られていたのである。貴族の中には、摂関家の受け入れを拒む者もいたが、公教と清盛のとりなしにより、摂関家も迎え入れられた。

 こうして、公教は、守仁のもとに朝廷の全勢力を結集することに成功した。同時に、公教は雅仁を信頼から引き剥(は)がす手も打っている。雅仁に守仁の内裏脱出を伝え、形勢が逆転したことを悟らせるのである。そうすれば、きっと雅仁は信頼を見限るだろうと公教は読んでいた。雅仁との衝突を避けたい公教としては、雅仁には中立になってもらえればそれでよかったのである。公教の読み通り、自らの企(たくら)みの失敗を悟った雅仁は大内裏を出て、同母弟・覚性のいる仁和寺に移った。

平治の乱

 翌朝、空になった内裏を目にした信頼と義朝は、呆然(ぼうぜん)と立ち尽くしていた。義朝は信頼を「愚か者」と怒鳴りつけたが、信頼には返す言葉がなかった。信頼は戦意を喪失し、降参するつもりだった。しかし、義朝は討死(うちじに)覚悟で、戦闘に打って出た。保元の乱において、敗者に対する処罰が、文官たちが流罪だったのに対し、武士たちは死刑だったからだ。義朝は生きる望みを失い、自暴自棄になっていた。その後、奮戦空しく敗れた義朝は、関東に逃走中、尾張国(おわりのくに)で殺された。

 信頼は雅仁に助けを求めるため、仁和寺に逃げこんだが、まもなく逮捕され、取調(とりしらべ)もなく、即刻処刑された。口封じのためである。信頼は雅仁の身代りとして、殺された。翌年、信西の息子たちが流罪を赦(ゆる)され、京に召還(しょうかん)された。これは、信西の名誉回復を意味する。歴史は書き換えられ、平治の乱における謀反人は、信西から信頼に入れ替わることになった。

※NHKの大河ドラマ「平清盛」をご覧の方は、こちらも参考になると思います。

保元・平治の乱の結果

●守仁vs.雅仁

 平治の乱の後、朝廷の全勢力を結集して、雅仁の企みを阻止した守仁が政治の主導権を握った。守仁の側近である経宗と惟方は「雅仁の時代が終り、守仁の時代が始まる」と言い放った。1160年1月、雅仁は仁和寺から、八条堀河(はちじょうほりかわ)の藤原顕長(あきなが)邸に移った。雅仁は顕長邸の桟敷(さじき)で、眺めを楽しんだり、通行人と言葉を交(か)わしたりしていたところ、経宗と惟方が突然、桟敷に板を打ちつけて、外が見えないようにした。

 怒った雅仁は清盛に泣きつき、二人の逮捕を頼みこんだ。2月20日、守仁の御所・八条室町殿(はちじょうむろまちどの)で、清盛は経宗と惟方を逮捕し、二人に暴行した。現場には直々に、雅仁も出向いていた。その後、二人は解官され、流罪となった。雅仁と清盛の関係は、この時からはじまる。なぜ、清盛がこの時、ほとんど力を失っていた雅仁の頼みを聞いたかと言うと、守仁に対する貴族集団の支持がゆらいでいたからである。

 1月26日、守仁の強い希望により、太皇太后・藤原多子(まさるこ)が入内(じゅだい、天皇の妻になること)した。多子は、体仁の中宮(ちゅうぐう、皇后より格下だが、天皇の実質的な正妻)だった女性である。守仁はすでに中宮・よし子がいるのに、新たな妻として多子を迎えた。よし子の存在は、守仁が正統であることの証である。多子入内は、これに反する行為である。貴族集団の総意は空覚の遺志を遵守することであったから、彼らの守仁に対する支持がゆらぐことになった。

 多子入内により、守仁とよし子の夫婦関係は破綻した。よし子はまもなく、母・得子のいる白河押小路殿(しらかわおしこうじどの)へ移り、8月出家した。この問題で、雅仁はよし子の側に立ち、多子入内を非難し、守仁とよし子の関係修復を促した。雅仁は空覚の遺志を遵守する姿勢を見せることにより、守仁に反発する得子や貴族集団に接近し、得点を稼いだ。とはいえ、守仁が正統の天皇だという朝廷の合意はゆるがなかったため、守仁と雅仁の対立は膠着(こうちゃく)状態に入った。

 1161年9月、雅仁と平滋子(しげこ)の間に、憲仁(のりひと)が誕生した。その直後、滋子の異母兄・時忠(ときただ)が憲仁の即位を期待する発言したため、解官された。守仁方は、王位継承に関する発言にかなり神経質になっていた。なぜなら、守仁にはいまだ後継ぎとなるべき男子がなく、しかも守仁自身が病弱だったためだ。

 ちなみに、時忠とともに清盛の異母弟・教盛(のりもり)も解官されているが、清盛はこの「憲仁即位待望論」とは一切無関係である。清盛は貴族集団の大勢(たいせい)と同じく、守仁を正統だと考えていた。また、当時、雅仁が密かに王位継承の期待をかけていたのは、六男・憲仁ではなく、三男・以仁(もちひと、母は藤原季子)である。なぜなら、三男以外の男子は、その外戚の家格が低かったからだ。

 時忠の失言を機に、守仁方は反撃に転じ、雅仁の側近たちが次々に解官・流罪となり、雅仁は引退同然の状態に追い込まれた。1161年12月、守仁は空覚と得子の娘・ワ子(あきこ)に院号宣下し(八条院[はちじょういん])、自らの「准母(じゅんぼ)」とした。自らの正統としての立場を強化するためである。さらに同月、藤原育子(むねこ)が入内し、翌年2月には中宮に立てられた。この時、中宮の位を空けるため、よし子に院号が宣下された(高松院[たかまついん])。育子の実父は藤原実能(さねよし、閑院流徳大寺家[とくだいじけ])であったが、摂関家の忠通・基実の猶子(ゆうし、養子)となっていた。育子との「再婚」により、守仁は摂関家との関係強化を図った(「守仁・基実政権」の成立)。

説明: 閑院流系図.bmp

 1165年6月25日、年の始めから病に伏せっていた守仁が、急遽(きゅうきょ)、2歳の次男・順仁(のぶひと、六条院[ろくじょういん])に譲位し、7月28日、23歳で死んだ。順仁は生母の家格が低かったため、中宮・育子が「准母」となって養育していた。守仁は中宮・育子、摂政・基実(摂関家)、基実の補佐役・平清盛、育子の実家・閑院流徳大寺家を順仁の支持基盤にしようと考えていた。守仁の死後、基実と清盛が乳児の順仁を支えていた。

 1166年7月26日、摂政・基実が赤痢(せきり)に罹(かか)り、24歳で死んだ。基実は1164年、清盛の娘・盛子(もりこ)と結婚していた。清盛は基実を喪(うしな)って大いに落胆し、嘆き悲しんだ。基実は摂関として貴族集団をまとめて政務を執(と)り、清盛はその補佐役を務めてゆくはずだった。基実の嫡男・基通(もとみち)はまだ7歳であったため、雅仁は清盛を基通の後見人に指名した。摂政・氏長者には基通が成人するまでの中継ぎとして、基通の弟・藤原基房(もとふさ)が就任した(「雅仁・基房政権」の成立)。

 雅仁の裁定により、基房は摂関・氏長者に地位に附属(ふぞく)する「殿下渡領(でんかわたりりょう)」を継承し、基実の遺産の大半にあたる「摂関家領」は北政所(きたのまんどころ、摂関の正妻)・盛子が相続した。基実の遺産の分割相続を清盛に助言したのは、藤原邦綱(くにつな)である。彼は摂関家に長年仕え、基実と盛子の結婚を仲介し、盛子の後見人となっていた。邦綱は、清盛の生涯の盟友となる。基通は摂関家の正式な継承者であり、成人した暁(あかつき)には、基房から摂関・氏長者を、盛子から摂関家領を相続する予定だった。この基通継承案を承認したのは雅仁であり、保証人となったのは清盛である。

 清盛がなぜ、関白・基実の補佐役や、基実の遺児・基通の後見人をつとめたかというと、自分のことを「摂関家の擁護者」と思っていたからである。

(引用開始)

 『玉葉(引用者註:ぎょくよう。藤原兼実[かねざね]の日記)』には、その頃に清盛が見た夢の話が見える。賀茂(同註:かも)大明神から宝の山を与えられてどうしたものかと困っていた清盛に、春日大明神(同註:藤原氏の氏神)の使者がやってきてしばらく預かるように語ったというのである。そのことから摂関家を預かることに決めたと、清盛自身が語っていたという。(五味文彦『平清盛』175ページ)

(引用終了)

 基実の死後、清盛が基通の後見人となり、盛子が基実の遺産を相続した。これは神意によるものだと清盛は解釈した。彼は非常に信心深い人間だった。また、王家に対する尊崇の念が強く、摂関家の役割を非常に重視していた。清盛が理想とする政治は、天皇が関白の補佐を得て政治を行うというものである。彼は天皇と摂関の協力を重視しており、両者を守ることが神々から託された自らの役目だと考えた。

※NHKの大河ドラマ「平清盛」をご覧の方は、こちらも参考になると思います。

(つづく)