「188」 論文 日本権力闘争史−平清盛編−(2) 長井大輔(ながいだいすけ)筆 2012年5月5日
●憲仁の立太子
守仁の死によって、雅仁が王位継承の決定権を握ることになった。前述のように、雅仁は閑院流の藤原季子との間にできた男子(守覚、以仁)を、自分の後継者にするつもりでいた。閑院流は天皇の后妃(こうひ)や生母を輩出するようになって以降、家運が上向き、摂関家に次ぐ家格をもつようになった。雅仁の母・璋子(たまこ、待賢門院[たいけんもんいん])も閑院流の出身である。しかし、雅仁が王位継承のパートナーに選んだのは、閑院流ではなく、平家であった。閑院流には、平治の乱で守仁を担いだ公教、桟敷事件で屈辱を受けた経宗(母が閑院流)、順仁を支える徳大寺家の実定(さねさだ)・実家(さねいえ)兄弟がいた。彼らとの確執(かくしつ)が、雅仁を閑院流から避けさせたようだ。
1165年12月、雅仁は、元服した以仁には親王宣下せず、憲仁を親王とすることによって、憲仁を自らの後継者と決めた。1166年10月、憲仁は皇太子に立てられた。東宮大夫(とうぐうだいぶ)には藤原兼実(忠通の三男)、東宮権大夫には邦綱がつき、乳母(めのと)には邦綱の娘・綱子(つなこ)と、平重盛(しげもり、清盛の長男)の妻・経子(つねこ)が選ばれた。翌年には滋子が女御(にょうご、皇后・中宮より格下の天皇の妻)とされ、政治の最重要問題である王位継承問題において、雅仁と清盛が連携する態勢がつくられた。
※NHKの大河ドラマ「平清盛」をご覧の方は、こちらも参考になると思います。
1166年11月の朝廷の人事で、藤原経宗が左大臣に、藤原兼実が右大臣に、平清盛が内大臣に就任した。清盛の内大臣就任には、貴族たちの反対もあったが、名誉職である太政大臣にすぐに昇進するということで、諒解(りょうかい)が得られた。実際に、清盛は翌1167年2月、太政大臣に昇進し、5月に辞任している(前大相国[さきのだいしょうこく])。清盛の内大臣就任が先例となり、以後、平家は内大臣に昇進できる家格を形成した。この年、清盛は50歳となり、政界の年長者として、朝廷の取りまとめ役を期待されるまでの立場になっていた。
●清盛の病気と出家
1168年2月、清盛が重い病気に罹り、一時は危篤(きとく)状態に陥(おちい)った。病状が一進一退を繰り返す中、清盛は出家し、戒師(戒を授ける人、師匠)は天台座主(てんだいざす、延暦寺住職、天台宗の代表)・明雲(みょううん)がつとめた。法名は清蓮(じょうれん)、のちに静海・浄海(じょうかい)と改名した(本文では、これ以後、平清盛を「浄海」と呼ぶ)。これを機に、浄海(平清盛)と明雲の親密な関係が始まり、明雲は「平氏の護持僧」と呼ばれるようになる。この際、妻・時子もともに出家している(二位尼[にいのあま])。
平清盛像
熊野参詣の旅に出ていた雅仁も急遽、帰京し、六波羅の浄海邸を訪れた。雅仁と浄海の直接協議によって、順仁から憲仁への譲位が決定された。2月19日、順仁は憲仁に譲位した(高倉院[たかくらいん])。憲仁の即位に伴い、母・滋子が皇太后に立てられ、憲仁を養育してきた盛子も准母・准后(じゅごう、准三宮[じゅさんぐう]、太皇太后・皇太后・皇后に准じる待遇を受ける)となった。
順仁から憲仁への譲位は、遽(あわただ)しく行われたが、これは雅仁の意志によるものであり、浄海(平清盛)が万が一死んだ場合、王位継承で揉(も)めるかもしれなかったので、それを未然に防ぐための措置であった。重病を機に浄海は、政界から引退することを決意し、1169年、播磨国福原(ふくはら、兵庫県神戸市)で隠居生活に入った。以後、浄海は政治に直接的に関与することはなくなり、福原に定住するようになった(福原大相国禅門[ふくはらのだいしょうこくぜんもん])。
1169年4月、雅仁は皇太后・平滋子に「建春門院(けんしゅんもんいん)」の院号を宣下した。これは自身が出家するための布石であり、6月、雅仁は園城寺(おんじょうじ、三井寺[みいでら])の覚忠(かくちゅう)を戒師として出家した。法名は行真(ぎょうしん、本文では、これ以後、雅仁を「行真」と呼ぶ)。翌年4月には、空覚(鳥羽院)と藤原忠実(知足院殿[ちそくいんどの])の例に倣(なら)って、東大寺で行真と浄海が同時に授戒した。行真の出家は年来の希望であり、本当は浄海と一緒に出家するつもりであった。
●嘉応(かおう)の嗷訴
1169年12月、尾張国(おわりのくに、愛知県西部)の知行(ちぎょう)国主・藤原成親(なりちか)と延暦寺(えんりゃくじ、滋賀県大津市)の間に紛争が起った。成親は行真(雅仁)の側近であり、男色相手でもあった。延暦寺大衆(だいしゅ、僧侶集団)は、成親の流罪を朝廷に要求したが聞き入れられなかったため、12月23日、天台座主・明雲を先頭に神輿(しんよ、みこし)を担いで入京した。24日、行真は大衆の要求を受け入れ、成親の解官・流罪を決め、大衆は内裏に放置した8基の神輿を回収し、京から撤退した。
ところが27日、事態は一変し、行真は大衆の嗷訴(ごうそ、宗教デモ)に肩入れしたとの理由で明雲を処分し、報告した内容に誤りがあったとして平時忠・平信範(のぶのり、時忠のおじ)の解官・流罪を決定し、成親を召還した。行真による明雲処分と成親召還に激怒した大衆は再び、嗷訴する構えを見せたため、行真は成親を検非違使別当(けびいしべっとう、警視総監)に任命して、これに対処させた。
大衆に対してとった行真の措置を、高橋昌明(たかはしまさあき)は『平清盛 福原の夢』の中で、「紛争の一方当事者に対立相手の行動を抑止させるという、まことに偏頗拙劣(へんぱせつれつ)な措置である。(99ページ)」と断じている。行真には、大衆と成親の紛争を解決することができなかった。福原にいて、行真には紛争処理を任せられないと見切った浄海は、1170年1月17日、入京した。2月6日、大衆との対立を避けたい浄海が延暦寺を支持したため、再び裁定は逆転し、時忠・信範は召還され、成親は解官された(ただし、流罪は免れた)。
●「乗合(のりあい)」事件
1170年7月3日、摂政・藤原基房の行列が、平資盛(すけもり、重盛の次男)の行列と出くわした際、資盛が下馬(げば)の礼をとらなかったことを咎(とが)めて、基房の従者たちが資盛の車を破壊した。基房はすぐに資盛の父・重盛に謝ったが、重盛の怒りはおさまらず、基房は自主的に従者を処罰して、検非違使に引き渡した。
なぜ基房がこのような卑屈な態度をとったかというと、平家と対立することにより、摂政職を失うのではないかと恐れたためだ。その後は、何事もなく時が過ぎ去ったが、10月21日、参内(さんだい、皇居に行く)途中の基房の行列が、武士たちによって襲撃された。この事件によって、基房と重盛の形勢は逆転する。事件そのものは、資盛や従者たちが勝手に起したことで、重盛は関与していなかった。
しかし、非難の矛先(ほこさき)は重盛に向けられた。貴族の同情は基房に集まり、結局、重盛が基房に謝罪することにより、和解が成立した。この事件をきっかけに二人は接近し、瓢箪(ひょうたん)から駒で、「基房・重盛ライン」が成立した。以後、重盛は独自路線を歩み始め、浄海と距離を置き始める。
●平徳子の入内
1171年12月、浄海と時子の娘・徳子(のりこ)が行真の猶子となった上で、入内した。翌年2月、中宮となり、憲仁の妻となった。摂関家でも、閑院流の出身でもない中宮の冊立(さくりつ)は、前例がなかった。この結婚は平滋子がプロデュースし、実際の段取りは藤原経宗、平重盛、宗盛(むねもり、浄海の三男)、時忠らがつけた。滋子の人柄について、遠藤基郎(えんどうもとお)は『後白河上皇』の中で、「建春門院(引用者註:滋子)は、聡明かつ心配りの行き届いた人物であり、社会性に問題のある後白河(同註:行真)のよき支援者・代行者として、後白河院政を支えている。(53ページ)」と書いている。
●基房と盛子の結婚話
基実死後、摂政をつとめる基房は、基通が成人するまでの「中継ぎ」のはずだった。ところが、行真(雅仁)は方針を転換して、摂関家嫡流(本家)を基通ではなく、基房に継がせることにした。基通は1170年に11歳で元服したが(この時、浄海の娘・寛子[ひろこ]と結婚したとみられる)、その後、摂関家の継承者として相応しい待遇を全く与えられなかった。一方、基房には1173年、平盛子との結婚話が持ち上がった。
基房はすでに内大臣・藤原公教(三条家)の娘に加え、太政大臣・藤原忠雅(ただまさ、花山院家[かさんのいんけ])の娘を娶(めと)っていた。この結婚話を持ち出したのは、行真である。優秀な故実家(こじつか、朝廷の儀式や先例に詳しい人)である基房は、行真の「お気に入り」になっていた。基房と基実の妻・盛子が結婚して子供が生まれれば、その子が摂関家の継承者となり、摂関家は「再統一」され、すべて丸くおさまる。基房と浄海を二本柱として、政権は安定するだろうと行真は考えた。
しかし、この結婚話は、基通の後見人である浄海(平清盛)の反対により、取り止めとなった。なぜ、浄海が反対したかといえば、彼は「摂関家を守れ(基通を摂関にせよ)」という神託を受けていたからである。
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●治承(じしょう)元年事件
1177年3月、延暦寺大衆が加賀守(かがのかみ)・藤原師高(もろたか)の流罪と、目代(もくだい)・師経(もろつね)の禁獄(きんごく)を要求して嗷訴しようとしているとの情報が流れた。29日、行真は師経を流罪に処して、事態を収拾しようとした。師高・師経兄弟の父は、行真の側近である西光(さいこう、藤原師光[もろみつ])であったため、行真は西光父子の処分を最小限に止(とど)めようとした。ところが、大衆は納得せず、4月13日、2000人規模の嗷訴を決行した。14日、行真は関白・基房や公卿と協議した結果、大衆と妥協することに決め、20日、師高の流罪が決まった(当初、西光も流罪にされるはずだったが、すぐに撤回された)。
ところが5月に入ると、事態は急変した。4日、行真が、検非違使に明雲を逮捕させたのである。行真は明雲を罷免(ひめん)し、後任の天台座主には覚快(かくかい、空覚の子)をあてた。明雲は還俗(げんぞく、僧侶が俗人にもどること)させられたのち、21日、伊豆国(いずのくに、静岡県伊豆半島)への流罪と決まった。
明雲の罪状は、1169年の延暦寺大衆による嗷訴と、今回の嗷訴を計画・指揮したというものである。故意に嗷訴を計画した場合は、「謀反」と認定される。公卿は明雲の「無罪」を主張したが、それを押し切って、行真は明雲に「有罪判決」を下した。なぜ、突然、行真は明雲を処罰したのか。実は、これは、明雲と延暦寺に恨(うら)みを持つ藤原成親と西光がでっち上げた事件だった。西光は成親の父・藤原家成(いえなり)の猶子となっており、二人は兄弟関係にあった。
成親は1169年の嗷訴で流罪となっており、西光は今回の嗷訴で自身の流罪は何とか免れたが、息子は流罪となった。二人は憎い明雲を罪に陥(おとしい)れるため、二つの嗷訴は明雲の「計画的犯行」であったことを証明する文書を捏造(ねつぞう)した。行真は、その「証文」を鵜呑(うの)みにした。明雲は行真の戒師をつとめたこともあり、二人は良好な関係を築いていた。明雲に裏切られたと感じた行真は激怒し、明雲を処罰した。明雲は成親と西光によって、濡衣(ぬれぎぬ)を着せられたのである。
ところが、5月22日、延暦寺大衆が伊豆に向かって護送されていた明雲を奪い返した。行真は護送役の源頼政(よりまさ)を責め立てたが、頼政は巧妙に責任を回避した。彼は大衆と衝突したくなかったため、明雲の護送を引き受ける一方で、警備の方はわざと手薄にしておいたのである。明雲奪取の報せに激怒した行真はすぐさま、平重盛と宗盛に対して、坂本(さかもと、延暦寺の門前町)の占領と延暦寺攻撃を命じた。
しかし、延暦寺を攻撃したくない重盛と宗盛は、「父親(浄海)の命令があれば、それに従う」として、浄海(平清盛)に責任を押しつけた。重盛と宗盛の返答を受け、行真は直ちに福原にいる浄海に延暦寺攻撃を命じた。浄海は福原で三日間、情報を集め、熟慮した結果、延暦寺攻撃を避けるためには、成親と西光を排除するしかないとの結論に達し、27日、入京した。28日、行真と浄海の直接会談が行われた。浄海は延暦寺攻撃に反対したが、行真は聞き入れなかった。行真の強硬論は、浄海にとって想定内であった。
6月1日、浄海は予定通り、成親と西光を逮捕し、西光は殺され、成親は京から追放された(7月9日、流刑先の備前国[びぜんのくに]で死亡)。なぜ、浄海は、成親と西光を排除しなければならないと思ったのか。
(引用開始)
清盛は後白河から延暦寺攻撃を命じられ、苦境に立たされていた。それがこの時の清盛の置かれた現実の情況である。(中略)清盛にこの攻撃を実行させれば、彼は仏法破滅の大罪を犯して仏敵となり、朝廷全体から敵視され、最後は討滅されることになるからである。清盛の脳裏にはこのような事件の構図が描かれたのではなかろうか。
実は、誰よりも清盛自身が、強烈な危機意識に捉われたに違いない。この途方もない「悪業」によって我が身は滅びようとしていると、彼は真剣に怯えたであろう。(河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』137−138ページ)
(引用終了)
浄海(平清盛)は、延暦寺攻撃命令は成親と西光が仕組んだものと考えていた。その目的は、浄海と延暦寺を敵対させることである。浄海にとって、延暦寺攻撃は「悪業(あくごう)」であった。延暦寺攻撃によって、自分は「仏敵」となり、さらには「朝敵」ともなりかねない。浄海は、延暦寺攻撃に心底、恐怖した。では、なぜ浄海に「悪業」を行わせようとしたのか。それは、この浄海を破滅させるためだと考えた。これは浄海の「妄想」であり、成親・西光にとっては冤罪(えんざい)であった。
成親は平家一門と親密な関係を結んでいたため、成親への制裁は一門の分裂を惹(ひ)き起しかねなかった。特に、重盛は成親の妹・経子を娶り、長男・維盛(これもり)は成親の娘を娶るなど、成親と親しい間柄にあった。こうした関係から、浄海は成親の取扱(とりあつかい)には慎重を期した。成親の解官は、平家一門への衝撃を和(やわ)らげるための猶予期間を設けるため、事件から半月遅れて6月18日に決定された。その一方で、浄海は一門への引締(ひきしめ)策も同時にとっている。
成親が浄海邸で捕縛された時(成親は自分が捕縛されるとはつゆ知らず、呼び出されてやってきた)、そこには重盛と頼盛(よりもり)がいた。頼盛は浄海の異母弟である。なぜ、浄海が成親の捕縛を二人に見せつけたかというと、平家一門は必ずしも一枚岩ではなかったからだ。平家一門は、嫡流、小松家(こまつけ、重盛、維盛、資盛)、頼盛の三つの勢力からなっていた。嫡流は、浄海と正妻・時子の子供たち、すなわち、宗盛、知盛(とももり)、徳子、重衡(しげひら)である。
当初は重盛が浄海の後継者であったが、徳子入内以後、中宮・徳子の同母兄である宗盛が平家の嫡流となった。重盛は「乗合」事件以降、基房と接近し、また成親を通じて行真の側近となっていた。頼盛の母は、平忠盛(ただもり、浄海・頼盛の父)の正妻である藤原宗子(むねこ、池禅尼[いけのぜんに])であり、本来なら自分が嫡流だという意識をもっていた。そのため、頼盛は一門の中でも独自色が強く、浄海の命令に常に従うとは限らなかった。成親捕縛は、浄海の断固とした決意を、重盛や頼盛に見せつけて、有無を言わさず服従させるための強硬策であった。
浄海は、自分を破滅させるために、成親と西光が行真を騙(だま)して、延暦寺攻撃命令を出させたと考えたが、成親と西光を排除して延暦寺攻撃を中止させることは、自分自身だけではなく、朝廷のためでもあるとも考えた。
(引用開始)
朝廷が延暦寺に武力攻撃を加えるなどという未曾有の「悪業」がもし実行されるならば、それは朝廷の破滅を意味する。「君側の奸」を除き、この危機を解決しなければならない。清盛の主観においては、彼は朝廷を救い、後白河を守り、政道の混乱を正したのである。(河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』143ページ)
(引用終了)
朝廷は延暦寺攻撃という「悪業」を実行しようとしていた。「悪業」を実行すれば朝廷は破滅する。ゆえに何としてでも、浄海は朝廷の延暦寺攻撃を中止させなければならなかったのである。
(つづく)