「190」 論文 『リバータリアニズム入門』『これからの正義の話をしよう』『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』の3冊を読んで分かったこと 加地龍太(かじりょうた)筆 2012年5月27日
ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」管理人の古村治彦です。今回は、20歳の大学生である加地龍太氏による論稿を掲載いたします。加地氏は、これまで兄弟サイト「副島隆彦の学問道場」内の「重たい掲示板」に何度も書きこみをしてきました。そして、今回、初めて本格的な文章を書きました。20歳の大学生である加地氏が3冊の本を読んで分かったことを文章にしました。読者の皆様、どうぞ問合せフォームから感想や意見をお寄せください。
以下に加地龍太氏の自己紹介を掲載します。
「私の名前は、加地龍太と申します。1991年生まれで現在20歳、都内の大学に通っています。現在私が関心を持っているのは、リバータリアニズムという思想と、今後の現実世界がどのように動いてゆくか、ということです。将来的な目標は、実業家と知識人になることです。取り得は「心が折れないこと」です」
それではどうぞお読みください。
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『リバータリアニズム入門』『これからの正義の話をしよう』『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』の3冊を読んで分かったこと
私は副島国家戦略研究所(SNSI)の筆頭研究員である中田安彦(アルルの男・ヒロシ)氏から文章指導を受けている。今回、中田氏から私に対して、3冊の本を読み、それらについてまとめるように言われて、この文章を書いた。私が中田氏から読むように言われたのは以下の3冊の本である。
@デイヴィッド・ボウツ(David Boaz)著、副島隆彦訳『リバータリアニズム入門』(1998年10月、洋泉社)
Aマイケル・サンデル(Michael J. Sandel)著、鬼澤忍訳『これからの正義の話をしよう』(2010年5月、早川書房)
B副島隆彦著『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』(1999年、講談社)
これから、私がこの3冊の本を読んで、分かったことと考えたことを以下の文章で書いていく。
●リバータリアニズム(Libertatianism)について
現在、私が関心を持っている思想がリバータリアニズムである。リバータリアニズムとは、「個人主義的自由を尊重する政治思想であり経済思想」である。日本語では「自由至上主義」や「個人優先主義」と訳されている。リバータリアニズムを主義とする人間たちのことをリバータリアン(Libertarian)と言う。
リバータリアンたちの主な主張は、
@外国の政府に対しては不干渉主義
A市場の原理(自由市場経済)を最も重視する
B外交・国際問題に対しては、ハト派(穏健派=反・侵略戦争派)
C他人の権利を侵害しない限りにおいて、自己責任で何をやろうと自由
などである。
デイヴィッド・ボウツ
リバータリアンたちが言う「他人の権利を侵害しない」とは、どういうことなのだろうか。以下に、デイヴィッド・ボウツの『リバータリアニズム入門』から「他人の権利を侵害しない」ということについての一つの見解を引用する。
(引用はじめ)
「侵害しないという公理」
自由の限界とは何だろうか?「すべて人には、他者が等しく持っている権利を侵害しない限りにおいて、自分の人生を自分の選択したとおりに生きる権利がある」というリバータリアンの原理の帰結はこうである。
「人は誰も、他の人やその財産を侵害する権利を持っていない」
これが、リバータリアンが、「侵害しない公理」と名づけるもので、これはリバータリアニズムの中心となる原理である。ここで注意していただきたいのだが、この「侵害しない公理」は報復のための力の行使を禁止してはいない。すなわち、盗まれた財産を取り戻すことや、他人の権利を妨害した人を罰すること、損害を調停すること、あるいは今にも人からされそうな侵害を避けること、などの場合である。ここで述べていることは、その人自身が暴力や脅しを使ったことのない人や財産に対して、物理的暴力を使ったり、脅したりするのは間違っている、ということである。それゆえ正義は、殺人、レイプ、暴行、窃盗、誘拐、詐欺を禁止している。なぜ詐欺も含まれるのか? 詐欺は果たして暴力に含まれるのか? そのとおりである。なぜなら、詐欺は窃盗の一つだからである。
(中略)
リバータリアンの見解において、自由とは、私たちの個人的な自己所有権あるいは財産権が侵害されず、攻撃されない状態のことである。他派の哲学者たちは、しばしば「リバータリアンの権利についての概念は、他者に対して単に否定的な義務を課そうとするだけだ」として、これを「消極的自由」と呼ぶ。すなわち、「権利とは、他の誰かを攻撃しない義務」というわけだ。しかしどの個人にとっても、アイン・ランドが述べたように、「権利とは積極的なものへの道徳的な要求」なのである。「彼自身の判断に基づく、彼自身の目的のための、彼自身の”自発的で強制されない”選択による行為の自由」なのである。
コミュニタリアンは、しばしば「権利についての言葉は、道徳的に完全ではない」と言うが、それは正しい。
権利は、道徳性の全体ではなく、ある確かな道徳性の領域、実際上、ある狭い領域に付随しているだけなのである。権利は、私たちが互いにいかに振る舞わねばならないか、ということについて最小限の確実な基準を設定する。私たちは殺人、レイプ、盗みをしてはならないし、あるいは自分のほうからであってもそうでなくても、相手に何かを強要してはならない。アイン・ランドの言葉によれば、「文明化された社会の必須条件とは、社会的人間関係のなかから物理的暴力を取り除くことである。こうして、もし人々が互いに取り 引きを望むならば、議論、説得、それから自発的で強制されない合意といった『理性』という方法のみでそうすることができる、という原理が創られる。権利の保護と平和的な社会の建設だけが、文明にとっての『必須条件』である。仲間とどうやってつき合ったらいいのか、という重要な疑問の大部分は、別の道徳上の公理が答えるべきものである」。
このことは、権利という観念は、どうも「それが適用される領域において」有効でなく、不完全だ、ということではない。それが意味するのは次のことだ。一般的に、私たちが毎日行う決断のほとんどは、それぞれの人が持つ権利への尊重という義務によってのみ制限される、ということである。(130−132ページ)
(引用終わり)
以上の引用文から、他人の「個人の尊厳と個人の権利」を強制的に侵害しないことがリバータリアン的には重要であり、個人の自由を制限するに足る理由になるとされていることが分かる。
尚、一言でリバータリアンと言っても、厳密に分類分けすれば、
@バーキアン・リバータリアン(Berkian Libertarian)
Aロッキアン・リバータリアン(Lockean Libertarian)
Bベンサマイト・リバータリアン(Benthamite Libertarian)
などに分けられるようである。
私にはまだリバータリアンの厳密な派閥分類のことは判っていない。しかし、『リバータリアニズム入門』の著者であるデイヴィッド・ボウツ氏がロッキアン・リバータリアンだということは知っている。
ロッキアンというのは、イギリスの大思想家ジョン・ロックの思想を主義とし、ナチュラル・ライツ(自然権)を最も大切なものであると考え、現実保守派と呼ばれている人々である。
ロッキアンは、ジョン・ロックがそうであったように、ビヘイビアリスト(行動主義者)であり、「個人財産権(property rights)の不可侵」を強固に唱える。
「個人財産権の不可侵」を唱えるのはリバータリアン的だが(もっとも、公共の福祉の範囲内において)、リバータリアンはビヘイビアリスト(行動主義者)ではなく、ネイティビスト(個別主義・生来主義者)である。
この点、複雑過ぎて難解なようだが、私は今後、副島先生やSNSIの先輩に指導を受けて理解を深めるつもりである。無論、学びの原点である独学でやれるだけはやるつもりだ。
●マイケル・サンデルが代表するコミュニタリアンとはいかなる者たちか
リバータリアニズムの対立概念がコミュニタリアニズム(Communitarianism)である。コミュニタリアズムの代表的な思想家にマイケル・サンデルがいる。サンデルの著作『これからの正義の話をしよう』では、リバータリアニズムが「老人などの社会的弱者を見捨てる冷酷な思想」と解釈され、コミュニタリアニズムが「共同体=国家を優先することによって、社会的弱者をも生きていける環境を作る正義の思想」と解釈されている。
マイケル・サンデル
これに私は異を唱える。
コミュニタリアンが肯定し、こうあるべきだ、と主張している「共同体優先主義=福祉優先国家=重税国家」という国家=政府の在り方は、「強大な権限を握った一部の集団が全てを管理して世の中を動かしてゆく」という考えである。
これは当然に、権力を一所(ひとところ)に集中させて社会を運営することを肯定する中央集権主義の考えに繋がる。
ナチス・ドイツやソビエト・ロシアが中央集権主義を肯定し、強大な権限を一手に握った一部の集団が統制経済、言論統制、思想統制を実行した。それに違反した者たちを強制収容所に押し込むという恐怖政治を敢行していたことを考えると、「社会的弱者(と勝手に言われているだけだが)を守る社会が正しい。それゆえ、増税をして 国家権力=政府の権限 を増大させてそれを行使する中央政権が全ての司令塔になるべきだ」と主張するコミュニタリアンの考えは、アドルフ・ヒトラーのナチズム(ファシズム)やヨシフ・スターリン(本名はジュガシヴィリ)のスターリニズムに繋がる危険性が大なのである。
事実、「強大な権限を握った一部の集団が全てを管理して世の中を運営する」という考えは、グローバリスト(地球支配主義者)の考えとイコールなのである。
これとは別に、コミュニタリアンは、モダン・リベラル派(現在のリベラル派はモダン・リベラル派と言うようだ)のアイディアリスト(理想主義者)が主張する「経済力のある人間たちから増税の形で財産を強制的に徴収し、国家=政府=役人がその税金を運営して社会を理想的な格差のない社会にする」ことを肯定し、そのために尽力することが「正義」である、と主張している。ハーバード大学という学び舎は、ジョージタウン大学と同様にグローバリスト系の大学として有名である。
グローバリスト(地球支配主義者)の大元は、ウォール街の金融財界人たちである。この原理に則り、マイケル・サンデルが代表するコミュニタリアンというのは、ウォール街を頭目とするグローバリストたちの手下なのである。
●グローバリストとはいかなる者たちか
グローバリズム(Globalism)とは、地球に存在する全ての地域を一つの共同体と考える思想である。そして、グローバリズムを信奉し、推進していこうとしている人々のことをグローバリスト(Globalist)と呼ぶ。日本で初めて、グローバリストという言葉を世の中に広めたのが副島隆彦である。
グローバリズムは、巨大な額の金銭を運用する権限を持っているコングロマリット(conglomerate、企業複合体)が国境を越えてあらゆる国の市場に進出し、市場を牛耳ってゆくことを肯定する。その国の市場、中でも基幹産業である金融市場を独占して牛耳るということは、イコールその国を実質的に乗っ取るということである。
なぜなら、人体を機能させる根っこが心臓から出る血液であるように、市場を機能させる根っこは金銭であるからである。この世では、金銭を動かす権力者が最も立場が上だということになっている。
この世では、資金源を確保することが出来なければ、あらゆる活動を継続的に行うことは不可能なのである。この厳然たる原理に基づき、現実世界では、この世で最も巨大な額の金銭を運用することが出来る権限を持っている権力者の「間接権力」の方が、国民が政府に与えた権限である「国家権力」よりも現実的・実質的に格上なのである。
上記の通り、ウォール街の金融財界人の筆頭であるデイヴィッド・ロックフェラー(1915年6月12日が誕生日で現在97歳)を頂点とするグローバリストというのは、金銭の力を以って各国の市場を牛耳り、最終的にはリヴァイアサン(Leviathan、怪物という意味)である国家権力を超越する「間接権力」というより恐ろしい怪物を行使して国家そのものを牛耳り、地球上のあらゆる地域に自らの権益を確保し、世界を経営する「地球支配主義者」のことなのである。
デイヴィッド・ロックフェラー
このウォール街の権力者たちが世界各国に確保した権益を守るために、アメリカ国民から徴収した税金を大量に使用し(米政府の軍事予算は約5,830億ドル、1ドル=80円で計算すると約46兆6,000億円)、海外に米軍を派遣している。日本に存在する在日米軍も、その派遣された軍隊の一つである。
以下に、副島隆彦著『改訂版 属国・日本論』()から参考にした文章を引用する。
(引用はじめ)
ローズヴェルト大統領が三〇年代に始めた革新政策が、アメリカの外交政策をグローバリズムへと駆り立てた。アメリカは昔から、国際的大企業が世界中に進出していたわけではない。これらの多国籍企業(マルチ・ナショナルズ、あるいはトランス・ナショナルズ)と呼ばれる巨大石油会社や金融法人やその他巨大企業(コングロマリット)が、アメリカの権益を世界中に張りめぐらしたのは、この時代からである。要するにニューヨークのユダヤ系の金融財界の持ち物である。だから、彼らの権益を守るために、いざというときに緊急に展開できる軍事力を、アメリカは世界中に駐留させておかねばならないのである。表面上の理由は、抑圧された国の人々の人権と民主政治体制を守るため、だが本当の理由は、アメリカの権益の擁護である。あからさまにいえばグローバリスト官僚たちは、多国籍企業を所有するニューヨークの財界人たちの利益を守るために献身しているのである。たしかに現に彼らが世界の秩序を責任をもって守っているとも言えるのだが、一枚めくればこういうことになる。(165ページ)
(引用終わり)
以上のように、グローバリストとは、ニューヨーク・ウォール街の金融財界を頂点とする地球支配主義者のことなのである。
この巨大な真実をカモフラージュするために、エスタブリッシュメント(権益を確保している権力者)側が陰謀論と言われる都市伝説を人工的に作り、世間に流出させる。
「ユダヤの陰謀」などの世間で陰謀論と言われているものは、エスタブリッシュメント側の工作行為である、と私には思えてならない。
私は一度、「有名な陰謀論者であるベンジャミン・フルフォード氏が、講演会や著作では反エスタブリッシュメント的なことを言っているが、実はエスタブリッシュメント側の人間であり、諸真実を真実ではないかのように曖昧な表現や用語(闇の権力者、闇の勢力など)で真実をカモフラージュする仕事をしている」ということを、とある人物から直接聞いたことがある。
フルフォード氏の著作を読んでも、重要な所で人名や団体名を明言せず、「闇の権力者が何々をした」などと書いてあることがあまりにも多過ぎる。こういう点を考えると、やはりベンジャミン・フルフォード氏はエスタブリッシュメント=グローバリスト側の「隠れエージェント=都市伝説作り屋」なのではないかと思えてならない。
なお、英語のコンスピラシー(conspiracy)の翻訳は「陰謀」となっているが、その訳し方は誤りであり、コンスピラシーの正しい翻訳語は「権力者共同謀議」であるとされる。この点については、副島隆彦+SNSI編著『悪魔の用語辞典』(2009年12月、KKベストセラーズ)を参照していただきたい。
●パターナリズム(Paternalism、 父親的温情主義)とセイフティ・ネット(safety net、政府による最低限の保障)が齎す弊害
人間は、自分の意志で生きてゆこうと思う気構えを無くしたら性根が腐る。豊かな家の子に生まれるか、豊かではない家の子に生まれるかは専ら先天的な運であり、個人の後天的努力は無関係である。先天的な運の差異で自分の運命を呪い、自暴自棄になる者は単なる弱者である。
コミュニタリアン(共同体優先主義者)やグローバリスト(地球支配主義者)などの中央集権主義者たちは、パターナリズム(父親的温情主義)という思想を唱えている。パターナリズムとは、「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意志に反して行動に介入・干渉すること」であり、「個人の利益を保護するためであるとして、国家が個人の生活に干渉し、あるいは、その自由・権利に制限を加えることを正当化すること」である。
これは、人間個人に「自分で生きてゆく努力をしなくても国家=政府が何とかしてくれるからそれで良い」などのような気持ちを抱かせる可能性が高く、現にそういう人間たちを多く作り出している。
セイフティ・ネット(政府による最低限の保障)という制度もパターナリズムと同様である。
以下に、この点について参考にした文章を『リバータリアニズム入門』から引用する。
(引用始め)
肥大し続ける国家は、ますます大人の市民たちを子どものように扱っている。国家はカネを生み出す人々からますます多くを取り上げ、それを就学前児童の教育や奨学金、農業助成金、企業福祉、失業対策、そして社会保障、などの間を渡り歩く無数の「所得移転計画」(transfer programs)をとおして、まるで配給物のように私たちに返還する。
私たちは医者の診察を受けてどのような薬を服用したらいいのか、子どもをどこの学校へ通わせたらいいのか、コンピュータによって私たちは何にアクセスできるのか、などを私たちが自分で決めることを国家は少しも信頼しようとしない。
国家の、すべてを抱きかかえてしまおうとする支配は、セイフティ・ネット(政府による最低限の保障)という、かつては大いに賞賛された制度に頼った人たちを、今や窒息させている。セイフティ・ネットは最後には人々を助成金と他者への依存という悪夢のような世界のワナに捉えてしまい、責任ある大人としての自分自身を確信する義務を彼らから奪い去り、そして徐々に彼らの自敬の念を弱めてしまう。
ラジオの公共ネットワークで最近行われた公開トーク・ショーにある人が電話をかけてきて苦情を述べた。「連邦政府以外に頼るところのない私のような何百万もの人間がいるんだから、経済全部が消滅するか、あるいは、私たちのような福祉に頼る数百万人が消滅するのでなければ、予算のカットなんかできないはずだ」。数百万もの成人したアメリカ人に、福祉小切手(生活保護)がなくなると生活できなくなるという不安を覚えさせようとして、政府はいったい何をしたというのだろうか?
ときどきリバータリアンは次のように言う。「保守派たちは、あなたを教え諭す父親になりたがってこれをしろ、あれはするな、とうるさく言う。一方、リベラル派は、あなたに食事を与えたり、抱きしめたり、あなたに鼻をかませてくれる母親になりたがっている。
それに対して、リバータリアンはあなたを一人前の人間として処遇したいのだ」。
リバータリアニズムは自由な社会にふさわしいタイプの個人主義思想である。成人を成人として処遇し、時にミスをおかすことがあっても自分自身での決断をうながし、自分の人生で最高の解答を見つけるのは、その人自身であると考える思想なのである。(172―173ページ)
(引用終わり)
以上のように、セイフティ・ネットやパターナリズムなどの「過剰福祉政策=増税政策」というのは、人間個人に自分の意志で生きてゆくという気持ちを失わせる危険性が大き過ぎる。
私はこのテーマを記述した始めの段階で、「先天的な運の差異で自分の運命を呪い、自暴自棄になる者は単なる弱者である。」と言い切った。人間に取って重要なのは、自分に何が出来て、何が出来ないかを知ることだと私は考える。
私はネイティビスト(個別主義・生来主義者)であるから、人間が持って生まれた才能・能力には差異があると考える立場の人間である。
ただし、生来的にどの才能に恵まれてこの世に生まれるかは専ら運であるゆえ、「この才能に恵まれた人間が他の才能に恵まれた人間よりも優れている」などという愚劣な考えは持つべきではないと考える。
「自分には何が出来るか」を思考し、自分なりに「この世で何をすべきか」を決めたならば、その志に向かい冷徹に前進してゆくべきである。人間の生死は天命ゆえ、志の途中で死ぬならば、それが天命だと割り切るべきだ。
少なくとも、私は勝手にそう思い込んで生きてゆく。
(終わり)