「194」 論文 日本権力闘争史 日本権力闘争史−源頼朝編―(1) 長井大輔(ながいだいすけ)筆 2012年8月12日

ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」管理人の古村治彦です。本日から本サイトを再開いたします。今までご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。今回から5回にわたり、長井大輔氏の「権力闘争史」シリーズを掲載いたします。大変に詳しい内容になっておりますが、コンパクトにまとまっております。源平の盛衰について良く理解できます。是非お読みくださいませ。

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●目次
・まえがき
・「家格」の形成について
・天皇誘拐未遂事件をきっかけとする天皇の福原退避
・石橋山で死ぬはずだった頼朝
・反乱軍に対する防衛態勢強化のための京都帰還
・日本史上はじめての快挙、義仲の京攻め
・はじめて臣下が天皇を破った法住寺殿合戦
・「天皇救出作戦としての頼朝軍」の上洛
・義経の暴走によって台無しになった天皇・神器奪回作戦
・頼朝のカウンターパートは兼実ではなく、行真(後白河)
・行真(後白河院)・頼朝関係から尊成(後鳥羽院)・頼家関係への移行

●まえがき

行真(ぎょうしん、後白河院)と浄海(じょうかい、平清盛)は、王位継承問題ではがっちり手を握り合っていたが、摂関継承問題では、齟齬(そご、食い違い)が生まれ、ついに治承三年政変(1179年)によって、浄海は行真を引退に追いこむことになった。行真は無能であったため、貴族集団はこの政変を、消極的ながらも、仕方のないこととして、支持した。しかし、朝廷内部の事情を知らない外部の大衆(だいしゅ、下級僧侶、雑用係)と武士たちは、これを行真に対する浄海の謀反と勘違いし、反平家運動を起こした。

 

行真(後白河院)      浄海(平清盛)

 そのような中、1180年5月、以仁事件が起きた。行真の三男・以仁(もちひと、高倉宮)と大衆の「王仏連合」による反平家運動は、源頼政(みなもとのよりまさ、武士)という「異分子」の混入によって崩潰(ほうかい)するが、園城寺(おんじょうじ)で書いていた以仁の手紙が、やがて武士たちの蹶起(けっき)を喚起(かんき)することになる。

  

以仁           源頼政

●「家格」の形成について

 摂関家の成立に伴い、12世紀の中頃から、貴族社会では家格の形成が進む。摂関家は藤原頼通(ふじわらのよりみち)以降、藤原北家御堂流(みどうりゅう、藤原道長流)の一系統のみに限られていたが、藤原忠通(ただみち)以降、近衛(このえ)、松殿(まつどの、二代で脱落)、九条(くじょう)の三家に分かれ、さらに、近衛から鷹司(たかつかさ)が、九条から一条(いちじょう)、二条(にじょう)が分かれ、これら五家が摂関家の家格を獲得することになる(五摂家)。

 さらに、摂関家に次ぐ家格としては、大臣・大将を兼ね、太政大臣(だいじょうだいじん、名誉職)になることができる「清華家(せいがけ)」「七清華(しちせいが)」がある。御堂流の花山院(かさんのいん)、大炊御門(おおいみかど)、閑院流(かんいんりゅう、藤原公季流)の三条(さんじょう)、徳大寺(とくだいじ)、西園寺(さいおんじ)、西園寺家から分かれた今出川(いまでがわ)、そして、村上源氏の久我(こが)の七家である。本稿では、このような事情を考慮して、藤原氏の名前表記に関しては、基本的に、姓ではなく、苗字(みょうじ)を採用することにする(例:藤原兼実→九条兼実)。

●天皇誘拐未遂事件をきっかけとする天皇の福原退避

 浄海(清盛)は1180年6月、行真(後白河)、憲仁(のりひと、高倉院)、言仁(ときひと、安徳帝)の三人の天皇を連れて、平家の別荘地のある摂津国(せっつのくに)福原(ふくはら、兵庫県神戸市)に避難した。1180年3月に起きた延暦寺(えんりゃくじ)・園城寺・興福寺(こうふくじ)の大衆たちによる天皇誘拐未遂事件と、同年5月に起きた以仁事件は、浄海を大いに震撼(しんかん)させた。

 もともと、畿内(きない、京都・奈良・大阪)は寺社の勢力圏であり、京都は反平家方に回った延暦寺・園城寺・興福寺によって包囲され、平家は極めて危険な状態に置かれていた。特に、反平家の急先鋒である奈良の興福寺は、平家にとって最大の脅威であり、福原への避難は、直接的には、興福寺との武力衝突を避けるためのものであった。摂津・播磨(はりま、兵庫県南部)は平家の勢力圏であり、寺社の政治的影響力もなく、安全な避難先であった。

 実は浄海は、福原避難を契機にして、遷都(せんと、首都移転)を実行しようとしていた。最初の予定地は、福原の南にある和田(わだ、兵庫県神戸市)であったが、立地条件の関係ですぐに撤回され、結局、福原を暫定の首都とすることになった。ただし、経過措置としては、首都機能は京都と福原に分散されることになった。以後、浄海は既成事実を積み上げて、福原を正式の首都にするべく、努力することになる。

●石橋山で死ぬはずだった頼朝

 源頼朝(よりとも)は一般的には、1180年8月に、伊豆国(いずのくに)目代(もくだい、代官)の平兼隆(たいらのかねたか)を討って、挙兵したことになっているが、本当のところは、「挙兵」などという恰好(かっこう)のいいものではなかった。以仁事件を受けて、浄海(清盛)は以仁に加担した源頼政の孫・有綱(ありつな)を追捕(ついぶ、逮捕)すべく、家人(けにん)の大庭景親(おおばかげちか)を関東に下向させた。

源頼朝

 伊豆には、平治(へいじ)の乱後、20年間流人生活を送っていた源義朝(よしとも)の三男・頼朝がいた。頼朝は、景親の下向は自分を追捕するためのものだと思った。身の危険を感じた頼朝はまず、自分の挙兵の邪魔になりかねなかった目代の兼隆を襲撃した。兼隆襲撃は「挙兵」などと呼べるような堂々としたものではなく、実態は奇襲・暗殺であった。兼隆襲撃にあたって、頼朝は、味方の武士一人一人を直(じか)に呼んで、説得にあたっている。頼朝と武士たちの間には、まだ主従関係がなく、頼朝はひたすら、武士たちに協力を要請するしかなかった。

 その後、頼朝らは、相模(さがみ、神奈川県)の三浦義澄(みうらよしずみ、平氏)との合流をめざすが、その姿は哀(あわ)れな逃亡者の群れに過ぎなかった。国府(こくふ、国司の役所)を占拠し、一国を制圧する力もなく、兼隆を殺した後は、一目散(いちもくさん)に逃げるのみであった。なぜ、頼朝が三浦を頼ったのかといえば、三浦は相模国で大庭と勢力争いをしており、景親との対抗上、義澄は頼朝に接近していたからである。

 ところが、頼朝勢300騎は相模国石橋山(いしばしやま)で、景親勢3000騎と遭遇した。頼朝勢は一方的に敗れ去ったが、それは「合戦」というよりも「山狩り」であった。景親勢による執拗(しつよう)な捜索は、頼朝に何度も死を覚悟させた。追いつめられた頼朝は、海に出る以外に脱出する途(みち)がなかった。頼朝と義澄は海上で合流を果たし、義澄の手引きで頼朝は安房(あわ、房総半島の先端)に上陸することができた。三浦の勢力圏は、海(東京湾)を挟んで三浦半島と房総半島にまたがっていたのである。

 頼朝が再起できるかどうかは、房総半島の有力武士である上総広常(かずさひろつね、平広常)と千葉常胤(ちばつねたね、平常胤)の動向にかかっていた。彼らは当初から、頼朝をかつぐつもりでいたが、その理由は彼らが平家方の近隣勢力との対立や、一族内部の対立を抱(かか)えていたからである。頼朝の「挙兵」は彼らが、それらの問題を一気に解決するための絶好の機会であった。

(引用開始)

 千葉氏は、平家の権威を背景とする藤原親政一族と下総国内で深刻な対立をかかえており、上総氏も一族内の対立や平家家人藤原忠清と上総国内支配をめぐって対立しており、これらが頼朝帰順の動機になったと考えられる。(高橋典幸『源頼朝』35−36ページ)

(引用終了)

 彼らが頼朝に味方した理由は、彼らが「源氏代々の家人」だったからではなく、現実的な利害計算によるものであった。

 房総半島の最大勢力は、上総広常であった。彼は、平家勢力と戦うための旗頭を求めていた。そこに、頼朝が現れた。だから、実際には、広常が頼朝軍に加勢したというよりも、独自に挙兵していた広常に、あとから、頼朝勢が加わったという方が事実に近い。実際、京都では、広常が反乱軍の頭目とみなされていた。

 ちなみに、千葉常胤はこの時、源義家(よしいえ、八幡太郎)の孫・頼隆(よりたか)を同伴していた。頼朝は舅(しゅうと)の北条時政(ほうじょうときまさ)によって庇護されていたが、常胤と頼隆の関係は、この時政と頼朝の関係と同じである。常胤の手にも、平家打倒の旗頭が握られていたわけである。相模の三浦義澄、上総広常、下総(しもうさ、千葉県北部)の千葉常胤の三人を味方につけたことが、頼朝の成功を決定づけた。

 その後、武蔵国(むさしのくに、東京都・埼玉県)の有力武士、畠山重忠(はたけやましげただ)、河越重頼(かわごえしげより)、江戸重長(えどしげなが)を麾下(きか)に入れた頼朝は、10月7日、相模国の一寒村・鎌倉(かまくら)に入った。こうして、頼朝は石橋山の「山狩り」から命からがら房総半島に脱出し、東京湾(内海[うちつうみ])を一周する間に、関東武士を次々に味方につけ、約一月(ひとつき)後、鎌倉に到着した時には、坂東(ばんどう)の盟主に変身するという奇跡の大逆転を成し遂げたのである。

関東勢力図(1180年)

 さて、ここで頼朝の同母弟・希義(まれよし、義朝五男)の話をしたい。希義も頼朝同様、平治の乱後、土佐国(とさのくに、高知県)介良荘(けらのしょう)に流されていたが、頼朝挙兵後、平家の追討の対象とされ、味方の夜須行宗(やすゆきむね)を頼って逃走中、年越山(としごえやま)で、平家の家人に殺された。行宗は助けに向かったが、時すでに遅く、そのまま、紀伊(きい、和歌山県)に逃れた。

(引用開始)

 こうして希義の挙兵は成功しなかったのであるが、この話は頼朝の場合と瓜二つなのが興味深い。夜須行宗は三浦一族にあてはめることができる。両者の行動はそっくりである。年越山はまさしく石橋山である。頼朝は石橋山で死ぬはずの身であった。希義も、もし年越山から生還し、行宗とともに紀伊に脱出していたならば、紀伊・土佐を拠点とする一大支配権をつくることができたかもしれない。(河内祥輔『頼朝の時代』11−13ページ)

(引用終了)

 源頼信(よりのぶ)を祖とする源氏の流れを「河内源氏(かわちげんじ)」というが、希義も、千葉常胤の庇護(ひご)を受ける頼隆も、そして頼朝も、みな河内源氏である。平治の乱以後の20年で、河内源氏の嫡流(本家の流れ)は、曖昧(あいまい)になっていた。だから、河内源氏の一族ならば、誰でも一族の棟梁(とうりょう、首長)になる可能性があった。はじめから、頼朝が「源氏の棟梁」と決まっていたわけではないのである。

 関東で平家に対して、反乱を起していたのは、何も頼朝だけではない。甲斐(かい、山梨県)では、甲斐源氏の武田信義(たけだのぶよし、源信義)、安田義定(やすだよしさだ)らが挙兵していた。1180年9月、平家は関東の反乱を鎮圧するべく、平維盛(これもり)を追討使(ついとうし)として派遣した。追討軍は平家傍流(ぼうりゅう、分家)の小松家(こまつけ)のみで編成され、大将軍は維盛であったが、実際の指揮は小松家の柱石・藤原忠清(ふじわらのただきよ、伊藤忠清)がとった。

 内乱勃発当初、平家が最も警戒していたのは甲斐源氏であり、平家の追討軍と直(じか)に対峙することになったのも、甲斐源氏であった。それに対して、伊豆の頼朝は忘れられた存在であり、京都では名前すらきちんと認識されていなかった。頼朝の「挙兵」とは、所詮(しょせん)、その程度のものであった。

 10月20日、維盛軍と甲斐源氏は富士川(ふじがわ、静岡県富士市)を挟んで対陣したが、維盛軍は戦わずして敗走した。追討軍は、「官軍(天皇の軍隊)」である。本来、戦わずして勝つのが官軍である。平家方は、大軍勢の官軍を派遣して、圧力をかければ、反乱軍(賊軍)は崩潰すると思っていた。ところが、実際には、事前に、信義・義定らが甲斐や駿河(するが、静岡県)で、平家方の勢力を打ち破っており、追討軍は期待していたほどの兵力を集めることができなかった。さらに、味方の敗報に兵の士気も下がり、脱落者が相次ぎ、追討軍は戦う前に、戦意を喪失していた。これが追討軍の不戦敗の原因である。

 一方、頼朝も駿河国黄瀬川(きぜがわ)まで進軍していたが、合戦に加わることはなかった。富士川合戦で、官軍が敗走したことを受け、頼朝は京都に攻め上(のぼ)ることを、東国武士たちに命じた。13歳で「従五位下右兵衛権佐(じゅごいのげ・うひょうえごんのすけ)」になった「貴族(位階が五位以上の官吏)」である頼朝は、早く京都の朝廷に復帰したかった。しかし、上総広常、千葉常胤、三浦義澄らは京攻めに同意せず、逆に、まだ服属していない常陸国(ひたちのくに、茨城県)の佐竹秀義(さたけひでよし、源氏)を攻めよと主張した。なぜ、彼らは京攻めに反対し、佐竹攻めを主張したのか。

(引用開始)

 すなわち、千葉氏や上総氏にとって佐竹氏は相馬御厨(引用者註:そうまみくりや、伊勢神宮の荘園となった下総国相馬郡)や常総地域の内海水運をめぐって争ってきた長年のライバルであって、頼朝のもとに結集した力を利用して、積年の課題を解決することこそが、彼らの当面の思惑なのであった。 (高橋典幸『源頼朝』39ページ)

 (前略)じつはその常陸国佐竹氏と上総・千葉両氏との間で相馬御厨をめぐって長年の紛争がつづけられていた事実を知るとき、彼らが頼朝の上洛を阻止し、佐竹攻めを主張した意図は明瞭となろう(略)。そこには彼らの個別的利害がまず反映されていたのである。(川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』158ページ)

(引用終了)

 広常や常胤が頼朝をかついだのは、源氏に忠誠を誓うためでも、上京して平家と対決するためでもない。その目的は、彼らが自分たちの地元で抱える諸紛争を有利に解決するためである。坂東武士の御輿(みこし)に過ぎない頼朝は、この段階では、彼らの意見に従う他なかった。11月、頼朝軍は早速、常陸国に攻め入り、佐竹秀義を討ち破った。広常は、佐竹攻めで最も積極的に働き、その勢力圏は常陸にまで広がった。

(つづく)