「197」 論文 日本権力闘争史 日本権力闘争史−源頼朝編―(4) 長井大輔(ながいだいすけ)筆 2012年9月23日
1185年2月、義経は僅(わず)かな手勢で、屋島に拠(よ)る平家を奇襲攻撃した。宗盛は、言仁の御所のすぐ近くが戦場となる可能性が大きかったので、反撃らしい反撃もせぬまま、船で逃げざるを得なかった。屋島では、戦闘らしい戦闘もなく、ほとんど戦死者も出なかった。義経の活躍により、勝敗が決したとされる屋島合戦だが、それは当初、鎌倉方が計画していた作戦とは異なっていた。義経は本来、別働隊の梶原景時と連携して、屋島を攻めるはずだったのである。
(引用開始)
即ち、屋島攻めは本来、海陸の両面から同時に攻撃をかける、という作戦であったろう。当時、平家勢は東の屋島と西の関門海峡に二分されており、しかも安徳は屋島にいた。平家方の兵力が分散している隙(すき)をつき、海陸両面から包囲すれば、平家勢を殲滅し、安徳をとらえることは可能である。安徳が奪われてしまえば、残余の平家勢は戦意を喪失し、それで勝敗は決する。
屋島攻撃作戦は以上のごとく推測できる。これに照らすと、実践の守備は初期の目的を果たしたとはいえない。平家勢ほとんど損害を受けることなく、全軍が長門に集結し、源氏軍との決戦に備えることができた。(河内祥輔『頼朝の時代』137ページ)
(引用終了)
範頼軍の苦戦を耳にして、義経は終始、焦っていた。このままでは、東国勢は撤退に追いこまれる。そうなる前に、宗盛との戦いに決着をつけなければならない。義経はそう思っていた。義経には、一刻の猶予も許されなかった。義経が軍事の天才と持ち上げられるのに対して、範頼の評価は低い。しかし、義経の屋島における勝利(本当は作戦失敗)も、範頼のそれまでの西国での戦いがなければ、達成できないものであった。
(引用開始)
だが、頼朝の指示通りの戦いを粘り強く続けた結果、地元武士団の協力も得て瀬戸内海水運の拠点の一つである豊後をおさえ、知盛を彦島に釘付けして屋島との連携を断ち切り、義経の奇襲を成功に導いた範頼の戦果は十分に評価すべきである。(上杉和彦『源平の争乱』220ページ)
(引用終了)
範頼に対する低評価は、覆(くつがえ)されるべきである。義経との関連で、梶原景時のイメージも悪い。景時は、頼朝の代官としての立場をわきまえず、無責任な行動をとる義経を、一軍の将として認めていなかった。義経は、屋島で、景時との連携作戦を無視して、単独行動をとり、宗盛勢に対して、無謀な戦いをしかけた。宗盛がもう少し冷静だったなら、義経隊も景時隊も、全滅していてもおかしくなかった。
屋島合戦の一カ月後の3月24日、範頼・義経軍は長門国(ながとのくに、山口県西部)壇浦(だんのうら、下関市)で、平家軍を全滅させた。頼朝からの支援で兵糧不足を解決して、態勢を立て直していた範頼は、九州の制圧に乗り出し、彦島に拠る宗盛の九州逃走を阻んでいた。勝負は、動員できた船の数で決まった。海戦と言っても、特殊な戦闘技術があるわけではない。両軍とも主力は西国勢であり、西国の戦いは西国武士によって、決せられた。
現在の壇ノ浦の様子
知盛ら平家方の武将たちは、入水(じゅすい)自殺した。平時子は言仁を抱いて、海に身を投じた。平徳子、宗盛、清宗(きよむね、宗盛嫡男)らも入水したものの、東国勢によって、海から引き揚(あ)げられ、捕虜となった。自殺が失敗して臆病者と言われる宗盛だが、彼は平家の最高責任者という立場上、早々と自殺することが許されなかった。言仁とともに西下した守貞は、入水を免れた。
壇浦で、平家嫡流は滅亡した。武将たちのみならず、女子供も入水自殺した。これは、それまでの合戦では前例のないことである。言仁は、もし助かっていれば、京都に帰り、上皇(旧主)としての待遇を受けたであろう。また、女は謀反の罪には問われない。実際、平徳子はその後、京都に戻り、出家し、言仁と平家一門の霊を弔(とむら)った。武将たちは処刑を免れないが、女子供は生きていれば、静かにその生涯を全うできたはずである。
こうして、東国勢は義経の活躍により、平家を滅ぼすことができた。しかし、行真と頼朝がめざした、平家追討の最大の目的である、言仁の身柄確保と神器の回収は、達成することができなかった。神璽(しんじ、勾玉[まがたま])と神鏡(しんきょう、八咫鏡[やたのかがみ])は回収することができたが、宝剣(天叢雲剣[あめのむらくものつるぎ])は言仁ともに、海の中に消えてしまった。
屋島合戦後、平家を壇浦に追いつめた頼朝は、勝負がついたと見て、言仁や神器を平家の手から回収するため、ここでじっくり構えるつもりだった。ところが、義経の暴走により、頼朝の思わくは台無しになってしまった。義経のせいで、言仁と宝剣を失ってしまったことは、取り返しのつかない大失敗であった。この点、範頼は義経と異なる。範頼は、平家追討戦の戦争目的は、平家の手から、言仁と神器を奪回することだと理解しており、頼朝の命令通り、慎重に作戦を進めて行った。頼朝と義経の対立の原因は、義経が頼朝の命令を無視して暴走した結果、平家追討の最大の目的を台無しにしたことにある。
ただし、範頼は実は、義経の暴走を黙認していたらしい。範頼にせよ、東国武士にせよ、本当は早く、戦いを終わらせて、関東に帰りたかったからだ。実際、遠く関東から離れた西国に遠征していた東国軍からは、脱落者が相次ぎ、厭戦感情が高まっていたため、頼朝は度々、有力武士たちの慰留(いりゅう)に努めなければならなかった。坂東武士たちは、いやいやながら、西国遠征に出かけていたのである。
(引用開始)
範頼は九州に駐留して戦後処理を命じられていたのであるが、配下の武士たちは続々と帰国してしまい、頼朝が制止命令をだすほどであった。平家追討戦にかけた頼朝の思いは、必ずしも東国武士たちには共有されていなかったのである。(高橋典幸『源頼朝』67ページ)
(引用終了)
●頼朝のカウンターパートは兼実ではなく、行真(後白河)
1185年4月、頼朝は「朝廷の官職に任じられた者は、在京して、朝廷の役人としての職務を全うせよ。もし、勝手に関東に戻ってくるようなことがあったならば、所領没収の上、斬罪(ざんざい)に処す」という命令を出している。このあと、義経が宗盛・清宗父子を護送して鎌倉に着いたが、頼朝は義経の鎌倉入りを許さなかった。頼朝が怒っていたのは、無断任官のことではなく、義経のせいで、言仁と神器の回収に失敗したことである。
(引用開始)
(前略)京都を拠点として公家政権の指揮下に動く御家人の存在を頼朝は否定していないのである。従って、義経がそのまま在京を続け、頼朝との敵対関係を持つことなく後白河直属の武士として活動し続けたならば、頼朝は当面そのような義経の立場を容認あるいは少なくとも黙認し、その結果、後の義経の運命は大きく変わっていたかもしれないのである。(上杉和彦『源平の争乱』230ページ)
(引用終了)
前述のように、頼朝は朝廷の官職というものを、厳格に考えていた。だから、家人が朝廷の官職に任じられたとしても、京都でその職務をまじめに果たすならば、そのこと自体は問題にしないのである。義経の場合、頼朝の怒りの原因は、義経が頼朝の意図を理解できないことにある。頼朝のもとには、彼の分身というべき梶原景時から、西国における義経の身勝手な振舞(ふるまい)を告発する手紙がとどいていた。
頼朝の怒りにやっと気づき義経は、慌(あわ)てて、弁明のために「腰越状(こしごえ)」を書くが、その内容は自分の手柄を誇り、自己弁護に努めるばかりで、反省の言葉は一つもなかった。義経は「腰越状」を頼朝の側近・中原広元(なかはらのひろもと、大江広元)に託すが、広元はそれを頼朝に取り次がなかった。これは広元が義経に意地悪(いじわる)をしたのではなく、義経の手紙の内容が頼朝の感情を逆撫(さかな)でするものだったからだ。だから、これは広元の義経に対する一種の温情と言える。
一方、源行家は、義仲と別れたあと、地元の和泉(いずみ)・河内(かわち、両国とも大阪府)に戻り、頼朝に服従することもなく、孤立していた。8月、頼朝は行家を謀反人と断じ、義経にその追討を命じた。ところが、義経は行家追討に反対し、頼朝と敵対する道を選んだ。義経と行家の共闘を恐れた頼朝は、義経の追討を決意する。義経は10月、朝廷に頼朝追討宣旨の発行を要求した。
源行家
行真(後白河)からの諮問に対して、左大臣・大炊御門経宗(おおいみかどつねむね)は、「今、京都には治安を担当する武士は義経しかおらず、義経に背(そむ)かれたら代わる者がいない」と答え、義経の要求を認めるように進言した。義経は要求をのまなければ、行真・尊成・貴族を伴って九州へ下向することをほのめかしており、義経の要求を拒絶した場合、義経が自暴自棄になって攻撃してくることも考えられた。朝廷は、ただただこの殺戮や強制連行の恐怖に怯(おび)えていた。
朝廷にとって自己保存は最優先事項であり、行真や貴族は、宣旨を出すにあたり、そうせざるを得ない事情というものを、頼朝は分かってくれるだろうと期待していた。こうして、朝廷は頼朝追討宣旨を発行することになった。
ところが、公卿の中でただ一人、頼朝追討宣旨に反対した人物がいた。九条兼実である。兼実が孤立を覚悟しても、宣旨の発行に反対したのは、彼なりの計算に基づくものであった。頼朝はすでに義仲追討後、行真に対して、摂政・近衛基通の罷免と兼実の摂政就任を求めたことがあった(1184年3月)。
兼実は藤原忠通の六男である。本来なら、摂関になることはない。ところが、嫡男(四男)・近衛基実(もとざね)は早死(はやじに)し、五男・松殿基房も、治承三年政変で失脚した。ついで摂関に就任した甥の近衛基通は、後見する平家が朝敵になった以上、摂関の座を兼実に明け渡すはずだった。しかし、実際には、そうはならなかった。行真が基通に「愛念(恋愛感情)」を抱いていたからである。男色関係で結ばれた行真と基通の治世は、平家滅亡とともに、ますます安定化しそうな状況にあった。
そんな時に舞いこんだのが、義経による頼朝追討宣旨の要求である。行真や大半の公卿は、宣旨の発行に傾いている。兼実は今こそ、基通を退けて、摂関になるための千載一遇(せんざいいちぐう)の機会と考えた。
(引用開始)
兼実の夢はこの頃(引用者註:頼朝による摂政更迭要求)からひときわ大きくふくらんでいた。そして、今こそ夢を実現する好機と彼は考えたのであろう。それは一つの選択である。すなわち、兼実は後白河よりも頼朝を選んだのである。後白河の好意に期待を懸けつつ、幾度も夢破れた彼としては、ここで後白河を見限り、頼朝にすべての望みを託すことになった。(河内祥輔『頼朝の時代』149ページ)
(引用終了)
兼実は行真を見限って、頼朝についた。摂関になるために賭(か)けに打って出たのである。
こうして、頼朝追討宣旨が発行されたものの、それが義経の強要により、出されたものであることは周知の事実であったため、義経・行家のもとには全く武士たちが集まらなかった。二人は挙兵計画の失敗を悟り、京都から逃走した。行家は翌年、潜伏先の和泉で殺されたが、義経の行方は杳(よう)として知れなかった。
一方、頼朝は自ら義経を追討するため、駿河国黄瀬川まで軍を進めていたが、義経の挙兵失敗の報せを受け、北条時政を代官として京都に派遣し、自らは鎌倉に引き返した。頼朝は、朝廷が自分を追討する宣旨を出したことに激怒した。しかし、彼はそれが義経の強要であるものであることは分かっていたから、真相は演技によるものである。
朝廷では、義経逃亡後、行真が基通に対して、摂政辞任の打診をしていた。しかし、基通はこれを拒絶した。摂政は朝廷の最高人事であるから、行真は基通を更迭することにより、頼朝に対して、最大限の誠意を示そうとした。基通の更迭に失敗した行真は続いて、鎌倉に使者を送り、自身の政界からの引退を表明した。これに対して、頼朝は返書を送り、その中で、行真を慰留し、執政継続を要請した。これは、宣旨発行に関して、行真の責任を問わないということを意味する。
ただし、身代わりは必要であった。頼朝が行真の身代りとして選んだのは、高階泰経(たかしなのやすつね)であった。泰経は下流貴族でありながら、行真の側近となり、公卿にまで出世していた。頼朝は、行真の第一の寵臣(ちょうしん、お気に入りの臣下)である泰経に、事件の責任をとらせることにした。ちなみに、頼朝が「日本国第一の大天狗」と揶揄(やゆ)したのは、行真ではなく、この泰経である。義経事件に加担したとして、泰経ら12人が解官・流罪となったが、ほとんどが下流貴族であった。
それに比べて、上流貴族に対する頼朝の態度は、寛大なものであった。頼朝は京都に使者を派遣して、頼朝追討宣旨に賛成した大炊御門経宗に対して、抗議しているが、経宗が頼朝に使者を送り、弁明に努めると、それ以上の追及をやめた。
また、頼朝は宣旨に反対した九条兼実の功労に報いるため、兼実の摂政就任を行真に要請するつもりでいたが、実際にはそうしなかった。なぜならば、行真の再三の説得にもかかわらず、基通が摂政辞任に応じなかったからである。頼朝は、兼実の摂政就任に固執しなかった。頼朝は、藤原忠通・頼長(よりなが)兄弟がそれぞれ摂関、内覧(ないらん、関白代行職)として並置された先例を持ち出して、基通が摂政として留まり、新たに兼実が内覧に就任することで、両者の妥協を図った。
同時に、頼朝は議奏公卿(ぎそうくぎょう)10名を指名した。通説では、議奏公卿は行真の「独裁」を牽制し、兼実を筆頭とする「親鎌倉派」公卿の集団指導体制をめざした、頼朝による「朝廷改造策」と説明されるが、真実はそうではない。議奏公卿のメンバーからは、経宗が外されていた。頼朝は、そうすることによって、経宗が宣旨発行に責任があることを暗に示そうとしたに過ぎない。議奏公卿のメンバー自体は、行真が約30人いる公卿の中から、自分の助言者として選抜していた12名の「インナー・サークル」を追認しただけである。
終わってみれば、頼朝は朝廷に対して何もしなかった。行真はお咎(とが)めなし、全責任は泰経に負わせる。経宗は少し責められたが、一年後には議奏公卿に加わっている。頼朝は、朝廷が仕方なく追討宣旨を出したことをよく分っていた。頼朝の激怒は、演技だったのである。
しかし、この頼朝の処置に納得しない公卿が、一人だけいた。兼実である。頼朝の「朝廷改造」により、彼は摂政になれるはずであった。しかし、実際には、内覧止まりであった。兼実は、頼朝に抗議した。そこで、頼朝は何とか穏便な解決策を探りつつ、基通・兼実双方の妥協をはかろうとしたが、二人にその意思はなかった。最終的に、頼朝は基通を切ることを決断し、1186年3月、兼実の摂政就任が実現した(「行真・九条兼実政権」の成立)。
頼朝にとって、兼実が摂政に就任することは、望ましいことではあったが、強(し)いて実現しなければならないことでもなかった。
(引用開始)
頼朝側の朝廷の首脳部人事に対する態度には、むしろ不干渉の傾向が感じられる。今回は結果的に干渉のやむなきに至ったが、それはできる限り避けたかったことではなかろうか。頼朝側のこのような姿勢は、貴族社会のことは後白河の統率に任されるべきである、との考え方に基づくであろう。そして、それとともに、貴族社会が自ら形成する秩序は尊重されなければならない、ということが頼朝勢力自身の考え方でもあったのであろう。(河内祥輔『頼朝の時代』215ページ)
(引用終了)
頼朝も浄海(清盛)と同じように、朝廷に干渉したり、改造したりする気はなかった。彼らの基本的な方針は、朝廷内部のことは、朝廷の人間たちに任せるというものである。
また、頼朝は1180年の挙兵以来、行真を朝廷の首長と仰(あお)いできた。頼朝が、以仁の手紙を掲げて、平家と戦ったのも、その裏に、行真の意志があるに違いないと考えたからである(ただし、行真が以仁を謀反人扱いしていることに気づいたのち、頼朝は以仁の手紙を破棄する)。頼朝は朝廷側の交渉相手として、行真を選んだ。
行真は度重なる失政や奇行により、貴族集団からの支持を失っていたが、その彼を再び、朝廷の代表にまで引き上げたのは、頼朝との関係である。だから、「頼朝・兼実同盟」というものはない。頼朝のカウンターパート(交渉相手)は、一貫して、行真であり続けた。東国の代表・頼朝と朝廷の代表・行真が相互に、相手を交渉の窓口として承認し、両者の交渉が政治の中心になったのである。頼朝の同盟相手は兼実ではなく、ずっと行真であったのである。
(つづく)