「212」 論文 天然ガスの時代―太陽エネルギーは本当に原子力エネルギーの代替になりえるか(1) 鴨川光(かもがわひろし)筆 2013年6月17日
(この原稿は、首相官邸前で脱原発デモが盛んにおこなわれていた、二〇一二年七月から書き始めたものである。)
二〇一二年七月、首相官邸の前では毎週末、原発稼働の是非を問うデモが繰り広げられている。
デモの主たる原因は、現時点では関西電力による大飯原発の再稼動決定に呼応したものが多く、主催者側によれば(それがどのような団体・人物なのか不明だが)、四万五千人とも二十万人とも言われている。
鳩山由紀夫元首相や坂本龍一氏など著名人も駆けつけ、かなり大規模な「賑わい」を見せているそうだ。デモのプラカードなどには、原発存続支持派、脱原発派の両方が混在しているようである。デモの実態が一体どのようなものであるかを、私は把握していない。
(著者注記:以下の「フォトガゼット」というサイトで、デモの空撮映像が見られる。http://fotgazet.com/news/000226.html )
【撮影:野田雅也(JVJA)】
デモの様子
二〇一一年以降の原発騒動で目に付いたのは、「脱原発」スローガンである。
「脱原発」は、かつては「反原発」と言った。六〇年代から八〇年代にかけては核軍備に対して、いやそれ以上に、横須賀港や佐世保港への原子力潜水艦、原子力空母入港の阻止、原子力船「むつ」への反対運動が大きかった。
原子力発電所建設の是非を問う国家的議論は、八〇年代の半ばまでに鳴りを潜めていったように私は思う。七九年に米国でスリーマイル島の原発事故、八六年にはチェルノブイリの未曾有(みぞう)の事故があったにもかかわらず、である。
二〇一一年以降は、原子力発電所の再稼動反対、廃炉の推進、代替エネルギーへの切り替えといった「脱原発」スローガンへと移り変わりつつある。大きくは放射能の危険性ゆえの全原子炉の廃炉、太陽光発電を中心とした自然環境にやさしい代替エネルギーの推進といった主張である。
六〇年代から反原発運動に関わってきた六〇歳代以上の、いわゆる左翼運動家(学生運動や労働運動含む)の人々の中には、伝統的とも言える近代以前、第二次大戦以前、明治より以前の薪(たきぎ)生活に戻るべきだという人々もいる。
エネルギー問題は本質的に、文明論と切り離せない性質を持っているから、このように主張する人々が絶えることなく存在することは当然のことであろう。
こうした脱原発と太陽光発電、ソーラーパネルへの移行を推進すべきといった考え自体は、よい方針だと私は思っている。人間にとって危険でない、自然を利用した生活を営もうという点ではまことに正しい。
こうした自然エネルギー推進の主張は、本質的に江戸時代以前、産業革命以前の薪(たきぎ)生活と同じものである。
しかし、太陽光や風力といった、今現在最も脚光を浴びている環境エネルギー発電が、本当に原子力や火力に取って代わる次世代の中心エネルギーとなれるのであろうか。
●エネルギー論争の争点
こうして、新たなエネルギー論争が巻き起こる中、エネルギーを文明史から論じ、特に、エネルギー・コストの点から、現在の世界で本当に有効なエネルギーとはどのようなものかを簡潔に説明した本があった。
石井彰(いしいあきら)という人の『エネルギー論争の盲点』(NHK出版新書、2011年)という本である。
『エネルギー論争の盲点』
私はこの著者の名前を初めて知った。著者の背景もわからない。ただし、現在の日本のエネルギー論争を、主にコストの面から論じ、一石を投じているという点で価値のある意見を提出していると思っている。
石井氏をインターネットで検索しても、石井氏自身のサイトやブログはどうも見当たらない。その代り、様々な人が石井氏の著書や新聞の寄稿を引用している。
石井氏の主張は、天然ガスを中心としたエネルギーの多様化、分散化である。本書で石井氏は太陽光エネルギーを批判しているが、決して反対はしていない。むしろ使うべきであり、積極的に推進すべきだと主張している。
石井氏は、単純な反原発論は打ち出してはいないが、原発そのものは環境負荷が高いため、積極的な支持はしていない。
石井氏のバックグラウンドは、米国のエネルギー省(Department of Energy)の統計を中心に分析していることや、ハーバード大学国際問題研究所に在籍していたらしいこと、本書の中では、エクソン・モービルの名前がちらほら登場してくることから、アメリカの関係当局や関係筋よりの考え方を持っているような印象があり、その分を少し差し引いて読まなくてはならないかもしれない。
本書の経歴には、元日経新聞記者であり、その後、石油公団での資源開発従事などを経て、「ハーバード大学国際問題研究所」客員(フェローということか?)を務めていたとある。
この研究所はキッシンジャー、ブレジンスキー、ジョゼフ・ネイ、エズラ・ヴォーゲルといった人物が関わった、日本にとってはいわくつきの機関である。
しかし、少なくともこの一冊においては、いわゆる左翼的であったり、環境保護派であったり、または、その反対に原発容認・推進的な体制的であったりといった、あからさまなバイアスは感じられなかった。
●ピーター・テルツキアンのエネルギー源利用価値判定のための九基準
本書の中で重要なのは、主にエネルギー・コストへの関心である。
筆者はエネルギーをコストの視点から論を進めるために、カナダのエネルギー専門家、ピーター・テルツキアン(Peter Tertzakian)の「エネルギー源の九基準」を土台にしている。ピーター・テルツキアンはMIT(マサチューセッツ工科大学。ここもまた非常にいわくつきの大学だが)などで教鞭をとっているようだ。
ピーター・テルツキアン
各エネルギー源の利用価値を判定する基準とは、本書二一ページによれば、以下の通りである。九基準を、私自身がもう少しわかりやすく仕分けして解説、引用する。
まず(1)(2)(3)(4)。これらの基準は、エネルギーそのものの性質ではなく、エネルギーの利用価値や利便性である。
(1)汎用性(どんな用途でも利用可能であるかどうか)
(2)量的柔軟性(微細出力でも巨大出力でも自在に調整可能であるかどうか)
(3)貯蔵性と運搬性(貯蔵性と運搬性に手間隙がかからないかどうか)
(4)ユビキタス性(時期と場所を選ばず、常に利用可能であるかどうか)
これらを一言でいえば、石油のように運びやすく、邪口をひねれば量を調整しやすく、いつでもどこでも利用できるかどうかということである。
石炭や原子力のように固体の燃料は、車や飛行機などの他の動力への利用は不可能か、かなり難しいであろう。(1)の汎用性とは、石油からプラスチックなどを作ることかと思ったがそうではないらしく、そうした主に輸送などの動力源としての用途を言うらしい。
(著者注記:汎用性に関しては以下のネット上の記事がわかりやすかった。「天然ガスは石油以上の万能エネルギーである」山田高明 http://agora-web.jp/archives/1435945.html )
(2)の「量的柔軟性」とは、蛇口をひねれば、水が調整出来ることのように、液体や気体、つまり石油と天然ガスのみが可能な性質を言っているのであろう。固体エネルギー源には望めないし、太陽、風のような自然エネルギーには当てはめることが出来ない。
(3)の「貯蔵性と運搬性」は読んで字のごとくである。自然エネルギー以外は可能である。
(4)のユビキタス(ubiquitous)が一見わかりにくいが、これは「いつでもどこでも利用可能」という意味である。これも自然エネルギーにだけは不利である。風と太陽光こそは、時と場所を選ぶ。
この(1)から(4)だけを見ると、液体がエネルギー源としてはそれらのメリットに一番適合する。つまり石油が一番有利だということがわかるであろう。
次に(5)(6)(7)。この三つの基準こそがエネルギーそのものの、エネルギー(つまり熱を大量に生み出せること)としての性質である。
(5)エネルギー密度(面積・体積、ないし重量あたりのエネルギー量が高いかどうか)
(6)出力密度(時間当たりの出力エネルギー量が高いかどうか)
(7)出力安定性(出力がふらつかず安定しているかどうか)
この三つの基準をまとめて言うと、「少量でも、短時間でも、持続してエネルギーを供給、つまり高熱を生み出せる」ということである。エネルギーそのもの、高熱を生み出せる性質を言っている。
この三つ「だけ」を取ってみれば、石油、天然ガス、原子力の独壇場であり、特に原子力が他を圧倒していることは周知の事実である。
最後に二つ。(8)(9)は、環境と政治的な要因。特に政治的な思惑が絡んでくる側面である。
(8)環境負荷(利用に伴う環境汚染や、環境破壊の程度が小さいかどうか)
(9)エネルギー供給安全保障(安定供給に関する、政治的リスクが低いかどうか)
(8)が、いわゆる環境に対する優しさである。九〇年代から一般的に広まりだした。これが太陽光と風力普及と原子力廃止の論拠である。ただし、必ずしも自然エネルギーがいいというものではない。ダムを作る水力発電は、昔から環境破壊を広く懸念され続けてきた。
自然エネルギーにはいろいろあるが、必ずしも環境に優しいという訳ではない。水力や地熱、まだ実際に行われてはいないが、波力や潮力といったプランは、施設を建設する際の環境アセスメントが非常に重要なファクターとなるから、簡単ではない。
環境に優しいエネルギーというのは、現在ではまず太陽光(そして太陽熱)と風力である。(8)の基準は、この二つのエネルギー源の実用可能性を示唆する基準である。
(9)は政治と国際関係の問題である。オイルショックによって、エネルギー源調達には、安全保障の側面が存在するということが浮き彫りにされた。要は、エネルギー資源の輸入はどうするのかということである。自然エネルギーがこれに当てはまるわけもなく、石油・石炭・天然ガス・原子力燃料の調達問題である。
筆者(石井)によれば、この九基準と、価格コストとの比較によって、各エネルギーの現実の用途とシェアが決まってくる。石井氏は、石炭、石油、天然ガス、原子力、水力、風力・太陽光の六つのエネルギー源に九基準に当てはめて、○、×、△で評価している。
それによると、最も○の多い最高ランクが、○七つの石油である。ではランキング形式で分析してみよう。
・第一位:石油
「石油の九基準評価」(二三ページの表から作成)
○(1)汎用性
○(2)量的柔軟性
○(3)貯蔵性と運搬性
○(4)ユビキタス性
○(5)エネルギー密度
○(6)出力密度
○(7)出力安定性
×(8)環境負荷
×(9)供給安定リスク
石油はこの九基準で(8)の「環境負荷」と、(9)の「供給安全保障」以外、全てにおいて○である。エネルギーとしても、貯蔵・運搬・他への利用価値、エネルギー資源の利点全てにおいて○。
石油はエネルギーのチャンピオンであるという事実をここで肝に銘じてほしい。と言っても、発電に向いているわけではない。いや、向き過ぎていて、エネルギー効率が良すぎて、蒸気タービンのために使うのはもったいないのである。
石油は、家庭の暖房以外、内燃機関やジェット、ロケットエンジンなど使うことが、一番エネルギーとしての性能を発揮する。
次に優等なのが、○が四つの天然ガスである。
・第二位:天然ガス
「天然ガスの九基準評価」
△(1)汎用性
○(2)量的柔軟性
△(3)貯蔵性と運搬性
△(4)ユビキタス性
○(5)エネルギー密度
○(6)出力密度
○(7)出力安定性
△(8)環境負荷
△(9)供給安定リスク
天然ガスは石油よりも○が少ないが、×が無い。(2)(5)(6)(7)が○である。
(2)の「量的柔軟性」は、天然ガスは気体であるから、家庭でのガスの取り扱いでわかる通り、元栓を閉めればすぐ止まり、火力の調節もノブをひねるだけで簡単にできる。
家庭でのガスはすでに天然ガスであるから、私たちにとって、その使いやすさは日々の生活の中で自明のものとなっている。
(1)「汎用性」(3)「貯蔵性」(4)「ユビキタス性」は、天然ガスは気体であるから、石油に比べたら、他の用途や、貯蔵・運搬には向いていない。
それでも、実際に私たちが生活レベルで確認できる通り、あの丸くて巨大なガスタンクやパイプライン、ガスボンベでの貯蔵・運搬が可能である。だから(3)(4)に関しては○と言ってもいいレベルである。パイプラインなどは輸送手段としては◎であろう。
(8)の「環境負荷」に関しては、化石燃料の中でも天然ガスのCO2排出量が最も小さい。△という評価だが、これは石油に比べたら△だろう。だが、石油は、今はほとんど発電には使われていない。石炭に比べたら圧倒的に○である。
(9)の「供給安全リスク」は今後の課題である。現在は船で液化天然ガスを石油と同じように運んできているが、将来的にはパイプラインを敷設しなくてはならない。これは国家的な課題である。だからこれだけは石炭、石油と同様×に近い△であろう。
さて、三番目が、現在も依然として火力の主力であり続ける石炭である。
・第三位:石炭
「石炭の九基準評価」
×(1)汎用性
×(2)量的柔軟性
○(3)貯蔵性と運搬性
△(4)ユビキタス性
○(5)エネルギー密度
○(6)出力密度
○(7)出力安定性
×(8)環境負荷
△(9)供給安定リスク
石炭は(3)(5)(6)(7)が○で、(4)のユビキタス性と(8)の供給安全保障リスクが△。(1)(2)(8)が×である。
まず、(1)から(4)の利用性の評価だが、「汎用性」と「量的柔軟性」が×。これは固体だからである。火力調節が非常に大変だということだ。蒸気機関車の石炭をくべる人(これが元々ストーカーと呼ばれた。火を煽る人というのが、恐怖を煽る人になった)の作業を思い出してみればわかると思う。
石炭利用の自動車が出来たこともあるが、蒸気を沸かして車を動かすなんてことは最早考えられないし、蒸気機関の輸送手段への利用は蒸気船があったが、これもとうの昔に無くなった。スクリューは内燃機関のほうが向いている。つまり石油で動かす。
蒸気船ですら外輪船の頃は、そのすべてを石炭で動かしていたのではなく、半分くらいは帆船として動いていた。あの黒船ですらそうだった。日露戦争の頃は最早スクリューだったが、石炭で動かしていた。これがあっという間に石油に代わったのは、内燃機関の急速な発達と、スクリューへの適応の速さだった。
火力発電の火の調整をどうやっているかわからないが、石炭を石油やガスのように、ボンベや腺をひねって、簡単に調節するようにはいかないことは想像がつく。酸素の調節による火の調節以外に、石炭のような固形燃料の量的柔軟性発揮の機会はないであろう。
(3)の「貯蔵運搬性」は、固体である故、安定感がある。重いという以外に欠点はない。石油と五分五分であろう。ただしパイプラインだけは不可能。
(4)の「ユビキタス」はどこでも使える、いつでも使えるということ。石炭は施設まで運びさえすれば、気象条件や地形などは関係ない。逆に使えないところなどあるのだろうか。運べるかどうかだけにかかっていると思うのだが。だからこれは実質○ではないかと思えてくる。
(1)から(4)に関しての石炭の成績は、大したことではない。今更誰もがわかっていることである。火力以外の用途はない。一般家庭の暖房にだって今はそう使わない。だから石油が、それを補うように登場したという二〇世紀の産業の歴史がある。
石炭で問題なのは、(8)の「環境負荷」である。CO2排出量のことなので、地球温暖化の主原因だと疑われ続けている。いずれにせよ、いわゆる公害、スモッグの原因の一つであったことは確かである。(石油もこれにはかなり貢献したが。)
CO2ということだけでなくとも、石炭はあの煙が問題だ。
「きかんしゃやえもん」(トーマスじゃないよ)の話を出さなくとも、SLはあの煙が周囲の住民に嫌われたわけで、CO2の問題が取り沙汰されるよりずっと以前から、それが畑の積藁に引火して火事を引き起こしたなど、本当に目に見えるレベルでの環境問題を起こしてきた。石炭はただでさえ汚く、微量ながら放射能も出ている。
石炭の急所は昔からおなじみの「環境負荷」である。
・第四位:原子力
×(1)汎用性
×(2)量的柔軟性
△(3)貯蔵性と運搬性
×(4)ユビキタス性
○(5)エネルギー密度
○(6)出力密度
○(7)出力安定性
△(8)環境負荷
△(9)供給安定リスク
第四位は原子力。(5)(6)(7)が○、(3)の貯蔵性と(8)(9)が△。(1)(2)(4)が×となっている。
(1)から(4)の利便性評価に関しては、同じ「固体仲間」である石炭と同じような成績である。輸送用機関のエネルギー用途、そして火力調節は石炭と同じで融通が利かない。貯蔵・運搬は固体だから運べるし、溜められる。しかし、ここで出てくるのが放射性物質であるという障害である。
固体だから石炭と同じであるし、少ない量を運び・溜めればいいが、その際の管理に、放射線防護の問題が存在する。
管理運搬の装備や設備に費用と手間がかかり、それに関わる人員にも、原子力関連の取り扱い資格を持った人間を配備しなければならない。警備員一人とっても、原子力関連の資格を持った者でなくてはならない。
だから原子力は(3)と(4)であっても、同じ固体仲間の石炭よりもランク下の評価になってしまう。
ユビキタス性が×となっているが、それ以上に貯蔵・運搬性のほうが問題になっているのは周知のとおりだ。こちらが△とはなっているが、これはこれまでの原子力の歴史を見ても×に近いであろう。
(8)の「環境負荷」は放射性廃棄物を生み出すことに他ならない。このことは最早言うまでもないことだが、△とされている。実質×と言っていい状況であるのが、昨今の状況である。
福島に飛散した放射性物質の危険度が、いったいどの程度のものであるかという議論があるが、放射性物質と放射性廃棄物それ自体の危険度と、福島の現状は別物である。ウラン、プルトニウムといった放射性物質は人体、有機物にとっては有害であることには変わりない。
(9)の政治的リスクは、テロと核拡散の脅威があることに、筆者は触れている(「エネルギー論争の盲点」二四ページ)。原子力にとってのこれは、日本にとって、日本自体が核武装をする可能性にまで広がる、幅の広い議論である。いずれにしても、△レベルの評価にとどまるとは思えない。
筆者も本書で、放射性廃棄物の異常に高いリスクに関して述べているので、なぜ(8)(9)の評価が△なのかが疑問の残るところである。ただし、これは石井氏がピーター・テルツキアンの評価を紹介したに過ぎない。
テルツキアンの評価で(8)(9)が△なのは、(8)が放射性廃棄物は出るが、CO2排出が非常に少ないという点、(9)はテロの脅威などはあるが、ウランからプルトニウムの生成が可能で、国家のエネルギー自給がある程度可能になることへの評価であるらしい。(原子力が純国産エネルギー源と言えるのは、少量のウランからプルトニウムの生成が可能であるからである。)
さて中間報告です。ここまでのいわばメジャーな歴代四番バッター(天然ガスは次世代ホープ)を見てきたが、エネルギー源の四番として必要な要素は、(5)(6)(7)の区切りであることがわかるであろう。
(1)から(4)は二次的なエネルギー価値であり、(8)と(9)はこれら近代エネルギーを使用してきた結果、六、七〇年代から生じた要素である。
エネルギーをエネルギーたら占める要素、エネルギーの主軸であり、クリーン・アップ、四番バッターを務めるためには、「短時間であっても、少量であっても、大きな熱量を、持続的に放出し続けられること」なのである。それがこの三つ、(5)「エネルギー密度」、(6)「出力密度」、(7)「出力安定性」である。
では、ここからが自然エネルギーである。かつて四番を務めたこともある新旧エネルギーのホープは九基準ではどのような評価になるのであろうか。
・第五位:水力
×(1)汎用性
△(2)量的柔軟性
△(3)貯蔵性と運搬性
×(4)ユビキタス性
×(5)エネルギー密度
○(6)出力密度
△(7)出力安定性
△(8)環境負荷
○(9)供給安全保障
水力は長年電力供給の伝統的主力であったのに、九基準での評価の地位は五位。○は(6)と(9)だけである。(2)(3)(7)(8)が△。(1)(4)(5)が×。
水力は二つの○、つまり「安定的に発電用タービンを勢いよく回し続けられる」だけだったのである。
まず(1)から(4)の評価。
(1)の「汎用性」。これは、水力が川の水であり、川の上流をせき止めただけだから、他に用途も糞もないということである。かつては水車で粉を引いた。水力の汎用性はそれだけである。自動車などの輸送手段に使えるわけもない。(4)も同様。「ユビキタス性」、いつでもどこでも使えるかどうか。川の上流。時と場所は選びます。共に×。
(2)「量的柔軟性」は、放水の調節が可能だから○ではないのかと思えるが、ダムの水位が下がったり、干上がったりしたら、調節も糞もないので△。
同じく、(3)の「貯蔵・運搬性」は溜められるし、水が勝手に流れてくれるではないかと思うが、水が干上がれば元も子もないので△。
次の(5)(6)(7)。
まず(5)。水力の「エネルギー密度」は、あれだけの水圧と水量の勢いの割には、発電量が小さいので×、というのは昔から知られていることで、それを補うために火力が生まれたようなものだ。
(7)の「安定性」は、(2)(3)と同じ理由で、干上がったら安定も糞もない。それでも大体は水をためていられるから、△。
(6)の「出力密度」だけ、○だが、これは本当に水の勢い、水圧、ただそれだけのことであろう。
最後の二つ、(8)(9)だが、(9)の「供給安全保障」(政治的リスク)は、日本国内において、ヨーロッパの国々のように他国から川の水を制限されることはない。しかし、ダムを決壊させるというテロは考えられないのだろうか。
少し前の時代なら、原子力や石油コンビナートよりも、ダムの決壊のほうが懸念されていたと思う。中国の三峡ダムはこれが当てはまるだろう。ただし、いまの日本では、ダム決壊の目論見テロというのは考えにくいのだろう。
それで(8)の「環境負荷」だが、水力、そしてダム建設こそは、環境への影響懸念の古典ともいうべき存在である。
水力はいわゆる自然環境利用エネルギーだが、環境には優しくない代表として、長年、何かと住民の反発や左翼・環境団体の槍玉(やりだま)に上がってきた。八ッ場(やんば)ダム建設問題は記憶に新しい。よって、本来××くらいのレベルである。
水力は今更という感じで、日本のエネルギー政策としてというよりも、地方のための公共事業という側面が大きく、それがいわば七〇、八〇年代以降は時代遅れとして認知されて今に至るものであろう。
日本の国土を利用した、最終的な電力インフラとして、ある程度のものを温存していくといった意味での価値があるという認識でいいのだと思う。
・第六位:太陽光・風力
そして風力と太陽光。○は(8)(9)のみで、残りは全て×である。
(1)から(4)の評価。完全に自然のものだから、他の用途には使えない。調節も不可。溜めることも運ぶこともできない。自然エネルギーは時と場所は選びます。全部×。
エネルギー源の性能本体としての(5)から(7)。
時間当たり、体積当たりのエネルギー量は小さい、薄い。希薄である。太陽光は彗星、風力は木星に行けば、安定しているであろう。
(7)の出力安定性に関しては、これが一番の障害であるといっていい。お天気は昔から気まぐれである。
こうしてみると、第二次大戦後にチャンピオンの座を獲得してきたエネルギー源は、(5)の「エネルギー密度」、(6)「出力密度」、(7)「出力安定性」を確保してきたものだけだと、あらためて思える。
この三つの要素が、いわば「近代の高出力エネルギー」で、近代の産業と、豊かな(寒くなく飢えない)生活を維持するための主な要素である。何千年もの歴史を持つ薪(まき、たきぎ)に代わって登場したエネルギー源たちの理由である。
いま盛んに言われている(8)の環境への影響は、六〇年代の終わり、七〇年代の公害問題が、その後世界的に深刻化してきたことから始まったもので、これが本当に真剣に受け止められ、人々が環境配慮の意志を実行に移したと言えるのは、九〇年代からであろう。
七〇年代はまだまだ「公害問題などバカを言え」という感じであった。もっと言えば、オイルショック以降でからで、特に第二次オイルショックの省エネブームからである。あくまで経済的なことから始まったもので、純粋に環境保護という観点から実行に移したのではない。
(つづく)