「223」 論文 やさしい日本現代史・日本国は万邦無邦の「デタラメ国家」である(5) 鳥生守筆 2013年12月13日
○大元帥・昭和天皇の形成
山田朗著『大元帥・昭和天皇』、ドナルド・キーン著『明治天皇』(新潮社、2001年)、原武史著『大正天皇』(朝日新聞社、2000年)などに従って、以下に述べる。
『明治天皇』 『大正天皇』
昭和天皇は、まだ明治天皇治世の時代、1901年(明治34)4月29日、青山の東宮御所で皇太子・嘉仁(よしひと)親王と節子(さだこ)妃(1900年5月10日結婚)の第一子として誕生した。嘉仁親王は、のちの大正天皇、節子妃は貞明皇后である。のちに昭和天皇となるこの皇子は、5月5日に明治天皇によって迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王と命名された。
迪宮裕仁 大正天皇
明治天皇は、同年3月5日、裕仁親王が誕生する前に、まもなく生まれてくる皇孫の養育掛として枢密顧問官・海軍中将川村純義伯爵を選んでいた。川村は、1836年(天保7)生まれで当時65歳、薩摩の出身で、海軍草創期に二度海軍卿をつとめた軍人であった。川村は、麻布区(現在の港区)狸穴(まみあな)の自宅敷地内に二階建ての木造洋館を新築し、舶来の家具調度品を備えつけた。
川村純義
裕仁親王は、7月7日、わずか生後70日にして川村邸にあずけられた。生後すぐに臣下の家に子どもをあずけるというのは、当時の天皇家の習慣であった。翌1902年6月に生まれた淳宮雍仁(あつのみややすひと)親王(のちの秩父宮)も同じく川村にあずけられ、一歳ちがいの兄弟はともに暮らすようになった。
1904年8月、日露戦争の最中に、養育掛・川村純義が死去すると、1905年4月より裕仁・雍仁兄弟は、東宮御所内に新築された皇孫御殿へと移った。この皇孫御殿は、いわば幼稚園であって、皇孫御養育掛長・丸屋錦作(東宮侍従)の監督のもとに、「御相手」として選ばれた貴族の子どもたち四人が二人ずつ交替で親王兄弟の遊び相手となった。このころの裕仁親王は、「御相手」だった久松定孝によると、あまり丈夫な方ではなく、よく風邪で休んだ。また、無口ではあったが、「非常にまじめな」性格であったという。
裕仁親王は、1908年4月11日、学習院初等科に入学した。明治天皇は、皇孫入学にそなえて、前年1月より日露戦争の旅順要塞攻撃で有名になった陸軍大将・乃木希典伯爵を学習院長に任命していた。乃木は、初等科教職員にたいして皇孫教育の方針として、健康第一、行状矯正を遠慮しないこと、成績については特別扱いしないこと、勤勉の習慣をつけさせること、質素を旨とすること、そして「将来軍務につかせらるべきにつき、その指導に注意すること」などを示し、その徹底を求めた。乃木自身も、裕仁親王が、雨の日は馬車で通学していたことにたいして、親王に直接、「雨の日も外套を着て歩いて通うように」と注意したという。
乃木希典
1912年7月30日、明治天皇が死去し、同日、皇太子・嘉仁親王が天皇となり、元号も「大正」と変わった。当時、学習院初等科5年生で11歳だった裕仁親王もこの日に皇太子となった。
8月6日、9月13〜15日に大喪の儀(天皇の葬儀)が行われることが決まり告示された。天皇崩御の際には仏式で葬るという長い伝統を破り、大喪は純然たる神式で執り行われることになった。もっとも、これには前例が無かった。そのため、それなりに「古式に則った」儀式が発明される必要があった。さらに、埋葬される陵所は京都市の南にあたる古城山(こじょうざん?)と発表された。「古城山」は急遽「伏見桃山」と改名された。
大喪の儀の様子
故天皇の柩は8月13日、殯宮(あきらのみや、崩御した天皇の柩を葬送の時まで安置しておく仮の御殿)に移された。大喪の儀の日まで、天皇、皇后、皇太后をはじめとして文武百官が日々ここで故天皇の柩に拝礼した。8月27日、故天皇は正式に諡号「明治」を贈られた。天皇の諡号が年号から取られたのは、和漢に例を見ないことだった。つまり、天皇の諡号になったのはこれが初めてだった。9月13日、故天皇の柩は轜車(じしゃ、柩を乗せる車)に安置された。午後8時、轜車は静かに車寄を出て動き始めた。乃木希典陸軍大将兼学習院長は、轜車が皇居を出発したころ、静子夫人とともに自刃し殉職した。午後10時56分、轜車は式場の青山練兵場に到着した。青山練兵場で執り行われた大喪の儀は、極めて豪勢なものだった。式が終了したのは、9月14日午前0時45分であった。
9月14日午前1時40分、天皇の遺骸を納めた霊柩は京都行きの特別列車に安置された。霊枢列車は、七輌連結だった。中央の車輌に霊柩が安置され、載仁親王、貞愛親王以下の供奉諸員が前後の車輌に乗った。列車は、東京から京都まで主要な停車場に数分ごと停車した。各停車場及び沿線では、人々が奉拝して見送った。列車が桃山に到着したのは、その日の午後5時10分だった。第二十二連隊野砲兵が分時弔砲を発し、葱華輦(そうかれん)に移された霊枢が陵所に向かう沿道には陸海軍兵が整列し、「哀の極」を吹奏した。
百五人の八瀬童子(やせのどうじ)が二段に分かれ、霊室をかついだ。その両脇に添うように、故天皇の側近に仕えた陸海軍将官、侍従等が進んだ。これに天皇名代載仁親王、大喪使総裁貞愛親王以下が続いた。9月14日午後7時35分、葬列は祭場殿に到着した。しばらく降っていた雨も上がり、かすかな月明かりがあった。霊柩が葱華輦から壙穴(こうけつ、墓穴)の中の石槨(石で造った柩の外枠)に移され、その中に安置された木槨の中に納められた。故天皇の御物が奉納された後、木槨の蓋が閉められ、さらに蓋石で石槨が閉じられた。横穴の四隅に神将の埴輪が置かれ、貞愛親王の書による「伏見桃山陵」の五文字を刻した陵誌が納められた。貞愛親王は横穴に進み、拝礼し、清き土を三度石槨の上に置いた。最後に、清砂で石槨の上部を覆った。埋柩の儀が完了したのは、9月15日午前7時だった。9時55分までに、すべての奉葬の式が終わった。これで大喪の儀は終わったのである。それは、帝国主義国家・大日本帝国の元首(皇帝)にふさわしい豪勢な葬儀であった。
こうした動きの中、皇太子・裕仁親王(昭和天皇)は、「皇族身位令」(1910年制定)第17条の「皇太子皇太孫は満十年に達したる後陸軍及び海軍の武官に任す」という規定にしたがって、明治天皇の葬儀が行われようとしている最中の、同年(大正元)9月9日付で、皇太子・裕仁親王は陸軍歩兵少尉と海軍少尉に任官し、近衛歩兵第一聯隊付と第一艦隊付となった。将来の大元帥としての軍人修業がここから始まる。
皇太子は、10月12日には、さっそく近衛歩兵第一聯隊におもむき、「命課布達式」(赴任式)に出席した。聯隊長・高島友武大佐は、聯隊全将兵の前に皇太子を導き、聯隊が皇太子を迎えた名誉を告げた。また、11月10日には横浜沖に停泊中の第一艦隊旗艦・戦艦〈河内〉での赴任式にのぞみ、12日には東京湾で行なわれた海軍特別大演習と観艦式に大正天皇とともに出席した。
皇太子は軍人として任官したといっても、小学生であることには変わりはなかった。が、時折の軍務をこなす必要があった。1913年の4月8日と10月24日には、学校からの帰りに、親王は近衛師団司令部と近衛歩兵第一聯隊に立ち寄り、また、11月30日には秩父宮・高松宮とともに横須賀軍港で新鋭巡洋戦艦〈金剛〉を見学、翌1914年3月には戦艦〈薩摩〉に乗って江田島へ行き、海軍兵学校や呉軍港を視察している。
昭和天皇は、1912年9月、11歳で陸軍・海軍両方の少尉に任官した皇太子は、その後、1914年、13歳で中尉、立太子礼が行なわれた1916年、15歳で大尉、1920年、19歳で少佐、1923年、22歳で中佐、1925年、24歳で大佐へと、大元帥になるために猛スピードで進級した。
1913年3月より、弟親王たちと別れて青山の東宮仮御所(以前の皇孫御殿)から高輪の東宮御所(旧高輪御殿)に移った皇太子は、翌1914年4月2日、学習院初等科を卒業した。このあと、皇太子は、彼ひとりの教育のために東宮御所内に新築された東宮御学問所で、天皇=大元帥となるための帝王教育をうけることになる。
東宮御学問所は、1914年(大正3)5月4日に開設された。東宮御学問所の総裁となったのは、日露戦争日本海海戦の英雄、元帥・海軍大将東郷平八郎であった。東宮御学問所は、一般の人々の中学校(当時は五年制)・高等学校(三年制)にあたる教育を12歳から7年間でおこなうとともに、天皇にとって必要な帝王学を修得する場所であった。五人の少年が、「東宮職出仕被仰付」という宮内省職員の辞令をもらって、皇太子の学友に選ばれた。東宮御学問所での教科は、倫理(杉浦重剛)・歴史(白鳥庫吉)・地理・数学・地文・国漠・博物・理化・フランス語・習字・法制経済・美術史・体操・武道・馬術の正規科目のほかに軍事学の講義があった。倫理と歴史は帝王学の基礎であり、軍事学も重要視されていた。
東郷平八郎
軍事学の講師には、陸軍人学校の校長と海軍軍令部次長クラスの将官があたった。陸軍側講師は当初、河合操少将(のち参謀総長・大将)、次に浄法寺五郎少将(のち中将)、三人目が宇垣一成少将(のち陸相・大将)ですべて現職の陸大校長であった。海軍側講師は、最初が海軍大学校教官・海軍軍令部第四(情報担当)班長だった竹下勇少将(のち大将)、二人目が海大教官・海軍軍令部第一(作戦担当)班長から講師の任期途中に海軍軍令部次長となった安保清種少将(のち海相・大将)である。
軍事学の講義は、週一回、陸軍と海軍が隔週で講義を担当した。内容は古今東西の戦争史、軍隊の歴史から始まり、やがてはかなり専門的な戦略・戦術にまでおよんだが、時には軍機に属することとして「他言をしないように」との注意がつけ加えられた講義もあった。昭和天皇は若くして、事実上、軍事学の日本における最先端を学んだのである。
明治以来、学校教育、軍隊教育やさまざまな情報統制・操作によって天皇を「現人神(あらひとがみ)」として敬う天皇制による「心の支配」は、国民に強く浸透していた。だが、これらの「心の支配」の浸透装置を用いても、現実には第一次世界大戦以後の大衆社会化の進展と社会運動の広がりを前に、支配のタガは緩みがちであったのも事実であった。第一次大戦終了直前には米騒動があった。そうした中での御学問所での帝王学の学習だった。
皇太子・裕仁親王は、1921年(大正10)2月18日に御学問所の課程を修了した。
当時、すでに皇太子は大正天皇の代理で政務・軍務につくことが多くなっていた。大正天皇は、皇太子時代は元気だったが、天皇になってから病気がちだった。1918年ごろよりとみに健康状態がすぐれず、歩行と言語にも支障を来すようになり、儀式における勅語の朗読なども難しくなっていた。1918年、19年の年末の帝国議会の開院式には出席できなかった。1920年4月におこなわれたイギリス大使、メキシコ、チェコスロバキア両国公使の信任状奉呈式には、初めて天皇に代わって皇太子が出席、同年11月に大分県でおこなわれた陸軍特別大演習も皇太子が視察した。この1920年から陸軍大学校・海軍大学校などの軍学校の卒業式にも裕仁皇太子が天皇の名代で出席するようになり、翌1921年からは、陸・海軍の特別大演習の統監も代行した。
天皇側近の一部と政府は、この天皇制の権威低下、危機を皇太子の摂政就任によって打開しようとした。そして、時の首相・原敬と内大臣・松方正義公爵(当時侯爵)、元老・西園寺公望公爵らは、皇太子を摂政にするまえに、外遊をさせて裕仁親王に大国の君主としてのさらなる自覚と見識をつけさせようと考えた。
原敬 松方正義 西園寺公望
1921年(大正10)3月3日、皇太子裕仁親王は、軍艦〈香取〉に乗ってヨーロッパ歴訪の旅に出た。皇太子には、元帥・陸軍大将閑院宮載仁親王(のちの参謀総長)を後見役に、宮内省御用掛・元イギリス大使の珍田捨己(ちんだすてみ)を供奉長に、かつての軍事学の教師・竹下勇海軍中将、東宮武官長・奈良武次陸軍中将、東宮侍従長・入江為守ら三三人の供奉員のほか、御召艦〈香取〉、供奉艦〈鹿島〉の乗組員、第三艦隊司令長官・小栗孝三郎中将ほか司令部要員、合計2000人以上が同行した。イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・フランス(二回目)・イタリアを歴訪し、同年9月3日、皇太子一行は帰国する。昭和天皇自身、この半年の外遊で、明治維新の岩倉遣米欧使節団と同じように、昭和天皇はヨーロッパ(帝国主義国)の雰囲気と情勢を掴んだ。
表面上、皇太子は旅行中にはあまり変化しなかったようである。だが、明らかに帰国後、皇太子は「君主」としての自覚を高め、積極的に政務・軍務をこなすようになるのである。10月14日、東京駅前で催された鉄道五〇年祝典に天皇の名代で出席、11月には陸軍大学校・海軍大学校の卒業式に出席、11月15日には本来は天皇が主催する赤坂御苑での観菊会を開き、同16日からは神奈川県で行なわれた陸軍特別大演習を統裁した。
11月25日、皇太子裕仁親王は、20歳で摂政に就任した。これは、政務・軍務のほとんどを皇太子である摂政が天皇に代わって行ない、大正天皇の事実上の引退を意味した。昭和天皇は、その重責を自覚した。
従来、軍隊閲兵の際に必要不可欠でありながら、苦手としていた乗馬も、自発的かつ集中的に練習し、1924年4月には陸軍の師団長たちに「殿下御馬術近年非常の御進歩にて著しき御熟練なり」と言わせるまでに上達した。馬上での閲兵は、大元帥にとってはひとつの「見せ場」であり、堂々と閲兵できれば、将兵の士気を大いに鼓舞することになる。また、将兵の前で、立派に勅語を読むというのも、大元帥にとっては重要な仕事である。よく通る明瞭な声でなければならないし、そうかと言って声を張り上げた下品なものでもいけない。そのあたりの兼ね合いが難しいのだが、1924年11月の北陸地方でおこなわれた陸軍特別大演習の際には、摂政は風邪をひいていたにもかかわらず、朗々と勅語を読み、参集軍人一般に多大の感動を与えた。
乗馬中の昭和天皇
統帥権は政治から独立しているとされ、統帥大権(軍事)と国務大権(政治)は分裂しているように見えるが、これが天皇によって統一されている、というのが明治憲法体制の建前であった。したがって、天皇という一機関によって統合されている建前の国務(政府)と統帥(軍)は、国家の指導層がはっきりとした国家戦略を決定しないかぎり、天皇が国務か統帥かの優先順位を決めなければならず、天皇個人をも分裂させてしまう恐れがあった。摂政になった裕仁親王は、それを無難にこなした。
大正時代になって、軍の最高統帥者不在の状態が久しく続いていたが、摂政が次第に大正天皇の名代を立派に務めるようになり、宮中の側近や軍部高官を大いに安心させたのである。
そして昭和天皇は、1926年12月25日に大正天皇が亡くなると、天皇に即位したのである。その経緯は、次の年表のようになる。
1901〜05年、 川村純義伯爵邸
1905〜08年、 皇孫御殿(幼稚園)
1908〜14年、 学習院初等科
1912年7月30日、皇太子に就任。
1912年9月9日、陸軍少尉、海軍少尉に任官。
1914〜21年、 東宮学問所(帝王学履修)
1921年3月〜11月、ヨーロッパに遊学
1921年11月25日、摂政に就任。
1926年12月25日、天皇に即位。
昭和天皇の軍人としての階級は、次のような年表になる。
1912年、陸軍少尉、海軍少尉に任官。
1914年、陸軍中尉、海軍中尉に任官。
1916年、陸軍大尉、海軍大尉に任官。
1920年、陸軍少佐、海軍少佐に任官。
1923年、陸軍中佐、海軍中佐に任官。
1925年、陸軍大佐、海軍大佐に任官。
1926年、大元帥に就任。
天皇が摂政になったときは、陸海軍の少佐だったのである。そして天皇になったときに、大佐から大元帥になったのである。大元帥とは、「陸・海軍を指揮・統率する最高統帥者」という意味である。
このように、昭和天皇は若くして、周辺に認められた立派な天皇になったのである。天皇の周辺(宮中)は、膨張と戦争が悪であると思わない帝国主義者で占められていた。よって、それはとりもなおさず、膨張と戦争を繰り返した大日本帝国の元首(皇帝)にふさわしい天皇になったということである。
(つづく)