「228」 論文 やさしい日本現代史・日本国は万邦無邦の「デタラメ国家」である(10) 鳥生守(とりうまもる)筆・ウェブサイト開設5周年をご挨拶を申し上げます。 2014年2月21日

 ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」管理人の古村治彦です。本日は、ウェブサイト開設5周年のご挨拶を申し上げます。2009年の開設以降、皆様には大変お世話になりました。何とかサイトを運営してこれましたのも皆様のお蔭でございます。厚く御礼を申し上げます。今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。

==========

○大喪儀

 改元が終ると、天皇の葬式にまつわる儀式が1カ月半にわたって行われる。1カ月半の間、新聞の話題はそこに集中していて、ヤジ馬はみんなそれを見に行ったりする。最初の六日間をとくに廃朝と称し、歌舞音曲が禁止された。

《 逓信省は、12月15日から年賀状の特別取扱を開始したが、東京の中央郵便局が取り扱った年賀郵便引き受け数は、12月25日までにたったの1万8815通にすぎなかった。前年の45万8834通とくらべれば驚くほどの減りようである。12月27日には逓信省もついに特別取扱の業務を中止した。政府も25日の臨時閣議(引用者注、大正天皇崩御直後の、葉山御用邸で開かれた閣議。この閣議で枢密院に諮詢するための元号案を決めた)で、12月30日までの6日間、歌舞音曲の停止を決定した。帝国劇場・歌舞伎座などはすでに12月18日から興行を停止し、日活・松竹系その他の映画館も20日から上映をとりやめていた。浅草・上野・新宿などの盛り場でも、人通りがめっきり減った。 》(中村正則『昭和の歴史・昭和恐慌』)

 大正天皇の場合は、翌1927年2月7〜8日に大喪儀(たいそうのぎ)が行われ、はじめて東京で葬られた。

大喪儀の様子

《 1926年(大正15年)12月25日に崩御した大正天皇の大喪儀は、翌1927年(昭2年)2月7日から翌2月8日にかけて行われた。大喪儀は2月7日夜に天皇の霊柩を乗せた牛車を中心として組まれた葬列が、宮城(現・皇居)正門を出発することに始まった。宮中の伝統に従って夜間に執り行われたため、葬列はたいまつやかがり火等が照らす中を進行した。
 葬儀は代々木練兵場(現:代々木公園)にて執り行われ、多摩御陵(東京都八王子市長房町)に埋葬された。 》(フリー百科事典『ウィキペディア』)

 このように、大正天皇の場合は、1926年12月25日に崩御し、翌年2月7〜8日に大喪儀が行われたのであるが、明治天皇の場合は、1912年7月30日に崩御し、同年9月13〜14日に大喪儀が行われ、昭和天皇の場合は、1989年1月7日に崩御し、同年2月24日に大喪儀が行われた。いずれも、崩御後ほぼ1ヵ月半後に大喪儀が行われている。

○大喪儀は伝統のとおりではない

 よって、ともすれば、大喪儀は、従来からの伝統に従って行われているように見られがちになるが、実際には前例にないことが少しずつおこなわれているのであり、まだまだ固まっていないと見るべきであろう。昭和天皇の場合は、「大喪の礼」→「大喪儀」→「大葬の礼」の順序で行われた。

 「大喪の礼」は国(内閣の主宰)の儀式として新たに行われ、「大喪儀」は従来からの皇室の儀式として行われたのである。明治天皇や大正天皇の場合は、「大喪儀」は皇室の儀式でもあり、国家の儀式でもあった。だから明治天皇や大正天皇の場合は、「大喪の礼」は必要なかった。

 いずれにしろ、このように、天皇の葬儀は、1カ月半にわたり行われるのであるが、われわれ一般国民には詳しくは分からない。

○天皇が葬られた場所

 天皇が葬られているところは、次のとおりである。

孝明天皇陵 後月輪東山陵(京都府京都市東山区今熊野字泉山)
明治天皇陵 伏見桃山陵(京都府京都市伏見区桃山町古城山)
大正天皇陵 多摩陵(東京都八王子市長房町)
昭和天皇陵 武蔵野陵(東京都八王子市長房町)

 孝明天皇までの代々の天皇は仏教の信者で、仏式の葬儀が行われ、明治天皇からは神道式の葬儀になったとのことである。これは明らかに、明治維新において大きな断絶(新王朝の成立)があったことをうかがわせる。それは、明治末期の南朝正統論の正式採用、これひとつで証明される。

 今上天皇御夫妻も、大正天皇や昭和天皇のそばに葬られる予定だとつい最近発表された。極力経費をかけないでほしいとのことだ。

○大喪の日に出される大赦

 ところで、この大正天皇の大喪の日(1927年2月7日)には、大赦という恩赦が出た。天皇の大喪の日には、大赦令が出されることが慣例だからである。戦前は欽定憲法であるから、大赦は君主の恩恵的行為として理解されていた。

《 猪瀬−(略)恩赦には大赦、特赦、減刑などとランクがあって、とくに凄いのが大赦です。大赦は浄化作用というか、全部徳政令ですから控訴事実はゼロになるんです。起訴は消えてしまう。進行中の裁判も全部パーになる。
 大赦のことはわりとみんな知りませんね。沖縄特赦とか、明治百年特赦とか、みんな特赦までなんですよ。大赦は控訴事実すら消滅してしまいますから、論理的には田中角栄だって無罪になり得るんです、これは大変ですよ。ただし、実際には彼の犯した罪が大赦の対象として選択されねばなりませんが、現実にはおそらく無理でしょう。だけど、いま申し上げたように論理的には無罪にされる可能性があるんです。その大赦が実際に発動されているわけですよ、天皇崩御に限ってね。
 そこで明治以降、大赦が発令された事例を調べてみたんです。
 まず、明治二十二年の憲法発布です。次は明治三十年の英照皇太后崩御、四十三年の朝鮮「併合」です。ただし英照皇太后崩御では台湾人に対して、朝鮮「併合」では「旧韓国法令の罪を犯した者」に対してだけですから、例外でしょう。これだけです、大赦は。そして、明治天皇崩御での大赦となるわけで、いかにめったに抜かない伝家の宝刀か、おわかりかと思います。
 大正時代にはありません。大正天皇崩御に対する大赦は昭和2年2月7日の御大喪に際して公布されています。それ以外に昭和の前半はひとつもありません。昭和20年10月17日に第二次大戦終結のための大赦があります。これは戦前の治安維持法などで刑務所に入っていた人たちを救済するためのもので、占領軍の意向に沿ったものです。その後、昭和21年の日本国憲法発布、27年の平和条約発効(講和恩赦)、31年の国際連合加盟、と大赦が続きますが、これは戦争という社会変動の余震みたいなものです。
 もう一度整理しますと、戦前では、大赦はほとんど天皇崩御のためにある、と言ってもよいぐらいですね。あとは日本の敗戦にともなうものです。それだけです、大赦というのは。選挙違反者を救済するための明治百年特赦とか、沖縄返還特赦などの特赦はときどきあったりするけれどたいした効力はありません。(略)
 ということは、新元号ができて今までつづいてきた時間が別の時間になる。それから、お葬式がイヴェントとしての昂奮みたいなものを伝える。なにか別の時間と空間に移行したような錯覚が生じるのではないでしょうか。 》(猪瀬直樹『ミカドと世紀末』)

 すなわち、明治以降、大赦は次のように行われたことになる。

  ・明治時代
1889年、憲法発布のとき
1897年、英照皇太后大喪のとき
1910年、朝鮮併合のとき

  ・大正時代
1912年、明治天皇大喪のとき

  ・昭和時代
1927年、大正天皇大喪のとき
1945年、第2次大戦終結のとき(10月17日の勅令第579号大赦令)
1946年、日本国憲法発布のとき(11月3日の勅令第511号大赦令)
1952年、講和条約発効のとき
1956年、国際連合加盟のとき

  ・平成時代
1989年、昭和天皇大喪のとき

 われわれ国民はほとんど自覚していないが、、明治以降、このように大赦が行われてきたのである。しかし理由がどうであれ、このような大赦(や恩赦)が行われることは、国にとって社会にとって本当に良いことなのであろうか。それはむしろ悪い慣習なのではないだろうか。罪の赦免などは、受刑者各自の事情や素行によってのみ行われるべきではなかろうか。そしてそれは随時行われているのだから、大赦を含む恩赦は必要ないはずである。

○2・26事件の青年将校たちの場合

 ところで、2・26事件の青年将校たち、そしてその関係者全員は、戦後の大赦を受けているということである。

《 一九四五年(昭和二十)八月十五日、第二次大戦はおわる。大日本帝国の事実上の終焉である。敗戦した日本は一大変革期にみまわれる。
 十月四日、連合国軍最高司令官は日本政府にたいし、政治犯の即時釈放ほかを要求する。二・二六事件の有罪者はその「即時釈放」の対象にふくまれる。事件は反乱罪で処断されており、政治犯なのである。
(略)
 恩赦は、政治上や社会政策上の見地から刑罰権もしくは言い渡した刑の効力の全部または一部を消滅させる。当時は「大日本帝国憲法」下だったから、天皇大権による行政作用としておこなわれた。恩赦には大赦、特赦、減刑、復権がある(「恩赦令」)。
 閣議が開かれ、十月十七日につぎのような詔書をもって恩赦が布告された。(略)
 この詔書のもとで、その十七日、「大赦令」「特赦」「減刑令」「復権令」が施行された(引用者注、「特赦令」というのはない)。「大赦令」(同日交付)は四五年の勅令第五七九号である。「大東亜戦争終熄」を事由とするものだった。
 その勅令の第一条の第六号により、同年九月二日まえに「陸軍刑法」の反乱罪を犯した者が赦免された。二・二六事件の受刑者はこれに該当する。第六号には「陸軍刑法第二十五条[反乱]、第二十六条[反乱劫掠(きょうりゃく)]及第三十条[反乱者を利す]の罪並に其の未遂罪及予備又は陰謀の罪」とある。
 翌四六年十一月三日にも、恩赦があった。この日の「日本国憲法」の公布に寄せてのものだった。(略)
 三日の恩赦の実施により、この日に今回もまた、「大赦令」「特赦」「減刑令」「復権令」が施行された。うち、「大赦令」(同日公布)は同四六年の勅令第五一一号による。
 その第一条第六号には、対象として、「陸軍刑法第二十五条乃至第三十二条[反乱罪・利敵罪の未遂罪、予備、陰謀]及び第三十四条[戦時同盟国にたいする反乱関係諸行為]の罪」が明示されている。これは、前回の同じ第六号よりも対象範囲がひろい。(略)
 これにより、四六年十一月三日まえに「陸軍刑法」の反乱罪を犯した者を赦免した。いうまでもなく、二・二六事件の受刑者も対象にはいる。
 かくして、二度の大赦で、二・二六事件の受刑者はすべて赦免されることになる。のちに、法務省保護局恩赦課長名の文書はこうのべる(河野司『ある遺族の二・二六事件』)。「当該受刑者(刑の執行を猶予せられ、猶予期間を満了した者を除く)はいずれも昭和二十年勅令第五七九号大赦令及び昭和二十一年勅令五一一号大赦令により赦令せられており、刑の言渡は効力を失っている」と。
 この両「大赦令」は、恩赦奏請の一連のながれのなかで、関係大臣の発議、内閣法制局の審査、閣議決定、上奏裁可、公布の手順を経て施行された。ただし、勅令であるのに、かけられるべき枢密院(引用者注、1888年4月30日設立、1947年5月2日廃止)の審議には付されていない。枢密院文書をおおく保管する国立公文書館にも手がかりがなく、理由は不詳である。
 右の引用文中の「刑の言渡は効力を失っている」とは、有罪の消滅を意味する。前科は抹消され、法律上、復権する。いまだに服役中であった民間人の亀川哲也も、このときに釈放された。反乱罪の謀議参与で無期禁固となり、二度減刑されたものの、なおも在監していたのだった。
 だが、死刑になった者はいわば死に損である。死刑の罪が消滅しても生き返るわけではない。主動組の野中四郎大尉と河野寿大尉はこの大赦の対象にはならなかった。事件直後、つまり裁判以前に自決しているからである。
すでに刑期を終えて出所した二・二六事件受刑関係者や遺族のほとんどは、大赦のあったことをながく知らないできた。本人や遺族の請求のないかぎり、法務当局からは通知しないきまりだったのである。大赦の事実は、五九年(昭和三十四)に、継宮明仁親王(今上天皇)の成婚(引用者注、成婚日は4月10日)に際し、関係者のなした恩赦の申請を機におおやけになった。同年五月一日付の、さきの恩赦課長名の法務省文書においてである。大赦からすでに一四年も経っていた。 》(北博昭『二・二六事件全検証』)

 北はここで、天皇制政府の東久邇宮内閣(1945年8月17日〜10月9日)、幣原内閣(1945年10月9日〜1946年5月22日)および昭和天皇の意思によって、二・二六事件関係者の大赦が行われたような言い回しをしているが、これはどうもあやしい。歴史の新たなそして大きな捏造でないかと思われる。またその言い回しゆえに、極めて煩雑な記述になっている。したがって、その部分は省略して引用した。

 「昭和20年勅令第579号大赦令」および「昭和21年勅令511号大赦令」の2度の大赦で、2・26事件の受刑者はすべて赦免されたそうであるが、前者は連合国軍司令長官マッカーサーの要求によるものであり、後者は新憲法「日本国憲法」公布による大赦である。(上述のように、明治憲法発布のときにも、大赦は行われた。だから昭和21年の大赦は従来からの慣例によって行われたと言える。)

○昭和20年10月の大赦は歴史的に意味が大きい

 敗戦直後の4つの大赦は、「敗戦」およびその余震によるものである言えるが、その最初の「昭和20年勅令第579号大赦令」は直接「敗戦」によるものであり、かつ外圧によるものである。確かに明治時代以来そして戦前戦中には、不正な刑罰が多々行われたのである。それによって無謀な侵略戦争が行われ、大敗北(国家破滅)したのである。この昭和20年の大赦は、その敗者たちが大赦を行うという、考えてみれば非常に奇妙なことであったのである。それは日本歴史上、例外的な、ほとんどありえない大赦だったと言える。それは裏を返せば、歴史的に意味の大きい大赦だったのである。

 したがって、この両「大赦令」には、@勅令であるのに、かけられるべき枢密院の審議には付されていなく、しかも理由は不詳であるとのこと、Aすでに刑期を終えて出所した二・二六事件受刑関係者や遺族のほとんどは、大赦のあったことをながく知らないできたこと、B本人や遺族の請求のないかぎり法務当局からは通知しないきまりだったこと、C大赦の事実は、1959年(昭和34)4月10日の継宮明仁親王(今上天皇)の成婚に際し、関係者のなした恩赦の申請を機に同年5月1日付の恩赦課長名の法務省文書において初めておおやけになったこと、Dそれまで大赦から14年も経っていたこと、などの不備がみられるのである。それは、敗戦後になってなお、天皇制内閣が敗戦の反省と責任を十分にとった処置ではなかったことを示す。

 天皇の有司(官吏、臣下)からなる日本の為政者者たちが基本的に政治責任を果たす能力と資質を持っていなかったことを示しているのである。われわれはこの史実を見逃してきたが、このような史実を見逃していると、日本にはいつまでたっても良い政治が行われないことになるのである。

 なお、この大赦の直前の10月10日に、獄中の共産党員ら政治犯500人が釈放されている。あわてた動きが感じられる。この前後の動きを年表にすると、次のようになる。

1945年9月13日、大本営廃止。
9月26日、三木清(49)獄死。
10月5日、東久邇宮内閣総辞職。
10月9日、幣原喜重郎内閣成立。
10月10日、獄中の共産党員ら政治犯500人釈放。
10月11日、マッカーサー、幣原首相に5大改革要求(教育・司法・経済の民主化など)
10月15日、軍令部(海軍)廃止。
10月17日、大赦令など。
10月23日、第1次読売争議。
11月4日、東京帝大経済学部教授会、大内兵衛・矢内原忠雄ら7人の復職を決定。
11月6日、GHQ、財閥解体指令。
11月30日、参謀本部(陸軍)廃止。
12月1日、陸軍省は第一復員省、海軍省は第二復員省に改称。

 当時は、歪みに歪んだ国家を正常に戻すために、しなければならなかったことが、いくらでもあった。多くの戦後改革が行われたが、今から振り返ると、戦後改革はまだまだ不十分だったのである。それは、アメリカの逆コースおよび一般国民への情報不足が最大の原因だったのだ。

(つづく)