「233」 翻訳 習近平の人脈についての論文をご紹介します(2) 古村治彦(ふるむらはるひこ)筆 2014年5月2日

●習近平の最高指導者就任と「陝西省組」の台頭

 習近平の最高指導者への就任と同時に、陝西省組と呼ばれる一連の卓越した能力を持つ政治指導者たちも北京の権力の中心にやってきた。彼らは、陝西省出身、もしくは陝西省に家族の起源(籍貫)がある人々、陝西省でキャリアを積んだ人々であった。(15)専門家の中には、こうした人々を「陝西幇(Shaanxi Gang)」と呼ぶ人たちもいる。陝西省組に連なる人々は、文官と軍官問わず、国家レベルの最高指導者層において急速に台頭している。(16)

◆出身地人脈と中国の政治ネットワーク

 現代中国においては、国家指導者層は特定の地域出身者たちが多数を占めるという状況が続いてきた。(17)国民党時代、広東省出身者たちが政治と軍の分野におけるエリート層を形成した。この時代のエリート層には、広東省出身者、黄埔軍官学校出身者、広東省でキャリアを形成した、もしくは政治家としてのキャリアを積んだ人々が含まれていた。(18)

毛沢東

 毛沢東時代、中国共産党指導部の過半数を中国中央部の出身者たちが占めた。その多くが特に湖南省と湖北省の出身者たちであった。これは1920年代から30年代にかけての中国共産主義運動の歴史的な背景と密接に関わっている。この時期、共産主義が中国中央部の零細農民たちを惹きつけた。それから20年から30年を経て、この地域の出身者たちが建国されたばかりの中華人民共和国の指導者層を形成した。1956年の中国共産党第8次中央政治局の3分の1は湖南省出身者であり、1969年の中国共産党第9次中央政治局の3分の1は湖北省出身者であった。(19)こうした湖南省、湖北省出身の指導者たちのほとんどは、軍歴を持っていた。この2つの時期の中央政治局においては、中国中央部の各章の出身者たちが半数を占めていたのである。

ケ小平

 ケ小平時代、ケ小平は同郷である四川省出身者たちに大きく依存した。最も有名なのは、楊兄弟である。兄の楊尚昆(Yang Shangkun、1907〜1998年)は中国国家主席と中国共産党中央軍事委員会副主席を務めた。弟の楊白冰(Yang Baibing、1920〜2013年)は、中国共産党中央軍事委員会総書記を務めた。ケ小平はまた四川省出身の側近たちを昇進させた。四川省党委書記の楊汝岱(Yang Rudai、1926年〜)、四川省長の肖秧(Xiao Yang、1929〜1998年)を要職に就けた。(20)

 江沢民と胡錦濤の時代、中国の指導者の多くが東部の海岸部、特に江蘇省と山東省出身であった。1997年の第15期中国共産党中央委員会の場合、中央委員の44.6%が中国東部沿岸部の出身者で占められた。(21)1990年代の軍のエリートたちに関する研究によると、佐官以上の4分の1を山東省出身者が占めていた。(22)1990年代末にある記者が報告したところによると、出身地が明らかな中国人民解放軍の将軍と提督42名のうち、13名が山東省出身、6名が江蘇省出身であった。軍の最高指導者22名(52.4%)が中国東部地域出身者であった。(23)過去20年間、軍の指導部層の中に山東省出身者たちが多いのにははっきりした理由はなく、いくつかの理由があるだろうとは考えられる。(24)文官系の指導者に江蘇省出身者が多かったことの理由の一つは、江沢民と胡錦濤が2人とも江蘇省出身で、同郷の人々を次々と昇進させたことが挙げられる。(25)

 他のエリート間の分裂の原因と同様、出身地に寄る人脈は指導部内の団結確立と派閥争いの道具となる。例えば、江沢民時代、上海とその周辺の出身の指導者たちは、中国共産党中央政治局常務委員の多数を占めた。その結果、最高指導部における団結は促進されたが、他方で、指導部内の派閥争いの原因ともなった。(26)中南海の新たなボスになれば誰でも、権力基盤を固めるために政治的なつながりやネットワークを利用しようとするのは当然だ。その中には当然出身地人脈というものも含まれる。

◆習近平の家族的な起源と「黄土とのつながり」

 習近平は出身地の陝西省出身者たちに大きく依存している。このことは、中国のエリート政治の規範を反映したものだ。実際、習近平は陝西省組(陝西情結)に対する強い愛着を公然と口にしている。この人脈は、「黄土地情結(yellow earth attachment)」としても知られる。(27)習近平の父親、ヴェテランの共産主義革命家であった習仲勲(Xi Zhongxun、1913〜2002年)は陝西省で生まれ育ち、同地で政治的、軍事的キャリアを積んだ。また、息子の習近平は陝西省で10代を過ごし、政治的なキャリアをスタートさせた。陝西省は共産主義革命にとっての重要な起源、そして原動力となった。そして、習近平の父、習仲勲はそれに大きく貢献した。いくつかの分析によると、陝西省出身者たちは現在の国家指導者層にとっての重要な原動力となっている、ということだ。(28)

習仲勲

 習仲勲は、1913年に陝西省中部の富平県で生まれた。15歳の時、学生運動に参加した廉で逮捕された。投獄中、習仲勲は中国共産党に入党した。出獄後、習仲勲は農民ゲリラに参加し、1933年に陝西省と甘粛省との間の省境に革命根拠地を構築することに貢献した。習仲勲は、1930年半ば、陝西省と甘粛省の省境地域のソヴィエト政府の議長を務めた。それ以降の10年間、抗日戦争と国共内戦を習仲勲は陝西省で戦った。習仲勲は、32歳の時、中国共産党北西部地域書記と北西方面軍の政治副委員に就任した。

 1949年、中国共産党は国共内戦に勝利した。その後、習仲勲は陝西省西安を本拠とした。そこで、習仲勲は北東地域の党、政府、軍の指導的立場に就いた。1952年、習仲勲は北京に移り、国務院秘書長を務め、周恩来(Zhou Enlai、1898〜1976年)国務院総理を補佐した。それから数年後、習仲勲は国務院副総理に就任した。

 習仲勲は前半生の40年を陝西省で過ごし、キャリアを築いた。習仲勲は1980年代初め、広東省で経済改革に従事した。特に深?経済特区の創設に巡力した。それでも、彼のキャリアは陝西省での経験によって築かれたと言えるのだ。習仲勲は文化大革命期より前の1962年からその終結後の1978年までの16年間、左遷されていた。この事実によって、習仲勲にとって陝西省という存在はより重要なものとなった。(29)

 習仲勲は陝西省と家族 彼の最初の妻は陝西省で生まれ育った人であった。彼の2番目の妻で習近平の母親である斉心(Qi Xin)とは陝西省の綏徳県で結婚した。習仲勲は2度の結婚で7人の子供をもうけたが、そのうちの5人が陝西省で生まれた。(30)習仲勲の弟・習仲凱は陝西省政府の商務部副部長や組織部長を歴任した。

 習仲勲の陝西省における人脈は、習近平の人生とキャリアに大きな影響を与えた。習近平の最初の結婚において義父となった柯華(元駐英中国大使)は北西部軍事委員会文化部長を務めた。習仲勲は中華人民共和国建国後数年、北西部軍事委員会副主席を務めた。習近平は、1980年初めに国防部長を務めた耿?(Geng Biao、1909〜2000年、こうひょう)の秘書(mishu、personal assistant)を務めた。耿?は、抗日戦争中に習仲勲の「戦友(comrade-in-arms)」であった。彼らは陝西・甘粛・寧夏の省境地域で活動した。

耿?

 習近平は陝西省において家族的なつながりが強く、彼の父親の陝西省における革命遺産も存在した。習近平が16歳の時に、陝西省の延安地域の延川県を「下放」先に選んだのはこれらが理由である。文化大革命の時期、都市部に住む中高生たちの多くが地方へ送られた。彼らは多感な時期に地方で農夫として働いた。彼らは「下放青年」として知られた。習近平はほぼ7年間を農夫として過ごした。そして、1974年以降はある村の党支部の書記を務めた。

 習近平は貧しく、未開な地方の寒村で厳しい生活を経験した。この時期、習近平は達成感と地元意識を持つことができた。習近平にとってこの時期は、北京の政治闘争から離れることができた時期であった。北京では、「毛沢東の敵」の子として苦難の生活を送っていた。しかし、北京を離れ、父親が革命家としてのキャリアを築いた土地に移ることで、そうした苦しみから逃れることができた。新しい環境に身を置くことで、習近平は、家族の出身地である陝西省において多くの人脈を自分で構築していった。彼の周囲には彼に好意的な陝西省の人々が多数存在した。習近平は中国のメディアに対して、延安で下放青年として過ごした日々について、「自分の人生において決定的な意味を持つ重要な経験であり、ターニングポイント」であったと述べている。(31)習近平は、自分自身を「延安人(Yan’an native)」だと規定し、陝西省は自分のルーツであり、基地(根、base)で、延安は自分の魂(soul and spirit)だと述べた。(32)習近平は、自分の故郷である陝西省で農夫として働いていた時に培った知識、強さ、そして自信に特に感謝しているとも述べた。(33)

●陝西省組の形成

 習近平が「黄土」について持つ感情を考えれば、彼が陝西省に関係する指導者たちに好意的であるということは理解しやすいことだ。これが、陝西省組(陝西省ギャング)の形成につながっているのだ。陝西省組について海外の中国語メディアでいくつかの記事を発表しているアナリストの蒋紹峰によると、陝西省組に連なる人々は、中国共産党と人民解放軍の指導者層のかなりの部分を占めているということである。蒋紹峰の記事を基に、私の分析を加えて作ったのが後ろに掲載している「表1」である。中国の文官と軍官における陝西省組に連なる重要人物を表にした。陝西省組は中国共産党中央政治局常務委員7名のうち3名(43%)、中央政治局員25名のうち8名(32%)、中国共産党中央軍事委員会34名のうち11名(36%)を占めている。(34)

◆「鉄の三角形」

 表1の最初の3名である習近平、兪正声(Yu Zhengsheng、1945年〜、ゆせいせい)、王岐山(Wang Qishan、1948年〜、おうきざん)は中国共産党中央政治局常務委員である。この3名は太子党(princelings)に属している。彼らの父親や義理の父親は中国共産党の最高指導者層に属していた。兪正声の父親・兪啓威(Yu Qiwei、1912〜1958年、ゆけいせい、別名:黄敬)と王岐山の義父・姚依林(Yao Yilin、1917〜1994年、よういりん)は共に1935年に北京で発生した一二九救国運動において主導的な立場にあった。兪正声は1945年に延安で生まれた。この当時、父の兪啓威は、中国共産党中央委員会北部局広東省平遠県支部の書記を務めていた。母の范瑾は、1952年に北京日報紙の社長と中国共産党北京市委員会宣伝広報部の副部長を務めた。この時、習仲勲は中国共産党中央宣伝広報部長を務めていた。こうした事実から、習家と兪家はほぼ70年の間、お互いをよく知り、付き合いが続いてきたことは容易に想像できる。

 

兪正声           王岐山

 習近平、兪正声、王岐山は党の最高実力者であった江沢民に近い。そして、第18期中国共産党中央政治局常務委員会の「大多数の6名」を構成している。彼らは、「江沢民派の中核グループの中核」を成す人々として知られている。2012年11月の第18中国共産党大会の開催前、アナリストの中にはこの3名の重要な政治家たちが、胡錦濤・温家宝政権以降の最高指導者層の中で、「鉄の三角形(鉄三角形、iron triangle)」を形成するだろうという予測を立てている人たちがいた。(35)

 兪正声と王岐山は、習近平の新しい政策提案を支持している。第18期中国共産党中央委員会三中全会(Third Plenum of the 18th Central Committee)開催の約3週間前、兪正声は、「これから開かれる会議で提案される改革政策は、その規模、範囲、深さの点で、大変重要である」と述べた。(36)この時期、習近平の指導力に対する深刻な悲観主義が中国で広まっていた。兪正声のこうした予測は、政治エリートと一般国民の両方から、三中全会で習近平の経済改革幅広い支持を得ることを目的としていた。三中全会で提案された印象的な経済改革案は、兪正声の予測と支持の正しさを証明することになった。

表1 習近平と国家指導者層における「陝西省組」の台頭

・習近平(Xi Jinping、1953年〜)
@中国共産党総書記、中国国家主席、中国共産党中央軍事委員会主席
A中国共産党中央政治局常務委員
B陝西省出身、陝西省への下放(1969〜1975年)

・兪正声(Yu Zhengsheng、1945年〜)
@中国人民政治協商会議全国委員会主席
A中国共産党中央政治局常務委員
B陝西省出身

・王岐山(Wang Qishan、1948年〜)
@中国共産党中央規律検査委員会書記
A中国共産党中央政治局常務委員
B陝西省への下放(1969〜1971年)、陝西省博物館での勤務(1971〜1973年、1976〜1979年)

・栗戦書(Li Zhanshu、1950年〜)
@中国共産党中央弁公庁主任
A中国共産党中央政治局委員
B西安市党委書記、陝西省党委副書記(1998〜2003年)

・趙楽際(Zhao Leji、1957年〜)
@中国共産党組織部長
A中国共産党中央政治局委員
B陝西省出身、陝西省党委書記(2007〜2012年)

・李建国(Li Jianguo、1946年〜)
@中国全国人民代表者会議常務委員会常務副委員長
A中国共産党中央政治局委員Politburo
B陝西省党委書記(1997〜2007年)

・馬凱(Ma Kai、1946年〜)
@国務院副総理
A中国共産党中央政治局委員
B陝西省で育つ

・常万全(Chang Wenquan、1949年〜)
@国務委員・国防部長
A中国共産党中央軍事委員会委員
B陝西省に28年間勤務(1974〜2002年)

・房峰輝(Fang Fenghui、1951年〜)
@中国人民解放軍上将、中国人民解放軍総参謀長
A中国共産党中央軍事委員会委員
B陝西省出身、陝西省に35年間勤務(1968〜2003年)

・張又侠(Zhang Youxia、1950年〜)
@中国人民解放軍上将、中国人民解放軍総装備部長
A中国共産党中央軍事委員会委員
B陝西省出身

・劉暁江(Liu Xiaojiang、1949年〜)
@中国人民解放軍海軍上将、中国人民解放軍海軍政治委員
A中国共産党員
B陝西省出身、陝西省への下放(1968〜1970年)

・王晨(Wang Chen、1950年〜)
@中国人民代表者会議常務委員会副委員長兼秘書長
A中国共産党員
B陝西省へ下放(1969〜1970年)、地方政府に勤務(1970〜1974年)

・何毅亭(He Yiting、1951年〜)
@中国共産党中央党学校常務副校長
A中国共産党員
B陝西省出身

・張宝文(Zhang Baowen、1946年〜)
@全国人民代表者会議常務委員会副委員長
A非中国共産党員
B陝西省の人民公社で誕生、東北農業大学副学長・学長(1991〜2000年)

・韓啓徳(Han Qide、1945年〜)
@中国人民政治協商会議全国委員会副主席
A非中国共産党員
B陝西省の病院に勤務(1968〜1979年)

SOURCE:
・Jiang Shaofeng(蒋紹峰), “The Emergence of the Shaanxi Gang in the Chinese Leadership.”, External reference (外参), no. 38,September 2013
・Jiang Shaofeng, “The Shaanxi Gang in the PLA”, Mirror Online(明鏡網), October 16,2013, http://city.mirrorbooks.com/news/?action-viewnews-itemid-100765, accessed January 16, 2014. Updated, expanded, and tabulated by Cheng Li.

Notes
15 In Chinese customs, people often identify themselves as natives of a place in terms of where their parents (and grandparents) came from, not necessarily where they themselves were born. This explains why family geographical origins play a very important role in Chinese people’s heritage and habits, forming various sub-cultural identities.
16 Jiang Shaofeng, “The Emergence of the Shaanxi Gang in the Chinese Leadership”, External reference, no. 38, September 2013.
17 Other countries have similar areas, as in the United States, where Virginia is considered to be the “mother of Presidents.”
18 Chen Jianhua, ed., Whampoa Military Academy Study ( series), Canton: Zhongshan University Press, 2008.
19 For an earlier discussion of the origins of the CCP leaders, see Franklin W. Houn, “The Eighth Central Committee of the Chinese Communist Party: A Study of Elites,” American Political Science Review, 51 (June 1957); Jurgen Domes, “The Ninth CCP Central Committee in Statistical Perspective,” Current Scene (Hong Kong), 9, no. 2 (1969); Robert Scalapino, ed., Elites in the People’s Republic of China (Seattle: University of Washington Press, 1972); Paul Wong, China’s Higher Leadership in the
Socialist Transition (New York: Free Press, 1976), 190–203; and Li Cheng and Lynn White, “The Thirteenth Central Committee of the Chinese Communist Party: From Mobilizers to Managers,” Asian Survey, Vol. 28, No. 4. (April 1988), p. 378.
20 As a result of Deng’s recommendation, Yang Rudai, then provincial party secretary of Sichuan, served as a Politburo member at the 13th Central Committee in 1987. When Deng planned to promote Xiao Yang, then governor of Sichuan, for membership on the 14th Politburo in 1992, Xiao was eliminated in the election for full membership of the Central Committee and thus failed to obtain a seat in the Politburo.
21 Li Cheng and Lynn White, “The Fifteenth Central Committee of the Chinese Communist Party: Full-Fledged Technocratic Leadership with Partial Control by Jiang Zemin,” Asian Survey, Vol. 38, No. 3 (March 1998), pp. 246–247. Some previously unknown figures are updated based on recently released official biographical information.
22 Li Cheng and Lynn White, “The Army in the Succession to Deng Xiaoping: Familiar Fealties and Technocratic Trends,” Asian Survey, Vol. 33, No. 8 (August 1993), pp. 766–767.
23 China News Analysis, nos. 1615–16 (August 1–15, 1998), 15–19.
24 It was unclear whether the strong representation of Shandong natives in the senior military leadership in China in the 1990s was due to the fact that many Shandong guerrillas joined the CCP and the PLA in the late 1940s (and then became top officers 40 some years later) or because of regionally based favoritism in elite promotion, or for other reasons.
25 For more discussion on this subject, see Cheng Li, “Political Localism Versus Institutional Restraints: Elite Recruitment in the Jiang Era,” in Barry Naughton and Dali L. Yang, eds., Holding China Together: Diversity and National Integration in the Post-Deng Era (Cambridge: Cambridge University Press, 2004), pp. 29–69.
26 See Cheng Li, “The ‘Shanghai Gang’: Force for Stability or Cause for Conflict?” China Leadership Monitor, no. 2 (Winter 2002); and Cheng Li, “Was the Shanghai Gang Shanghaied? The Fall of Chen Liangyu and the Survival of Jiang Zemin’s Faction.” China Leadership Monitor, no. 20 (Winter 2007).
27 For example, the Chinese official media reported that Xi is particularly fond of the cuisines of two regions: his native Shaanxi and his wife’s birthplace, Shandong. See Zhang Xinzhu, “Xi’s ‘Chinese Soccer Dream,’” China Newsweek , March 29, 2013, also http://insight.inewsweek.cn/report-8713-page-all.html, accessed January 18, 2014. For the “yellow earth attachment,” see Liang, New Biography of Xi Jinping, p. 105.
28 “The Emergence of the Shaanxi Gang in Politics” . World Journal, September 5, 2013, p. A12.
29 Xi Zhongxun spent these 16 years between Beijing (in the Central Party School) and Henan Province’s Luoyang City, where he served as a deputy factory director. Liang, New Biography of Xi Jinping, p. 54.
30 When Xi Zhongxun moved to Beijing in the fall of 1952, his wife, who was already pregnant, remained in Yan’an for several more months. When she joined Xi Zhongxun in Beijing the following year, Xi Jinping was born. Two years later, their youngest son, Xi Yuanping, was also born in Beijing. Both Xi Jinping and Xi Yuanping have the name “ping”, reflecting their birthplace of Beiping(now called Beijing). Liang, New Biography of Xi Jinping, p. 34.
31 Yan’an Daily, August 20, 2007, p. 1; also see Liang, New Biography of Xi Jinping, p. 104.
32 Jiang, “The Emergence of the Shaanxi Gang in the Chinese Leadership.”
33 Wang Jun, “Xi Jinping tells his sent-down youth experience in Shaanxi”, Dagong website, May 6, 2013,
http://news.takungpao.com/mainland/zgzq/2013-05/1590913.html, accessed January 18, 2014; and Liang, New Biography of Xi Jinping, p. 104.
34 Jiang, “The Emergence of the Shaanxi Gang in the Chinese Leadership.”
35 Sun Yun, “Xi Jinping uses the excuse of his back hurt to be ‘spirited away.’”, China News Online, September 26, 2013, accessed January 18, 2014.
36 Yu Zhengsheng, “The reforms proposed at the Third Plenum will be unprecedented in scope and efforts”, Xinhua News Online, October 27, 2013,
http://news.xinhuanet.com/fortune/2013-10/27/c_125604227.htm, accessed January 18, 2014.

(つづく)